ゼロアートのMickeyです。
本日は、19世紀中ごろ~20世紀初頭のフランスに生きた画家ポール・セザンヌについてご紹介します。
セザンヌは、西洋美術史の上で非常に重要なアーティストですが、その重要な理由についてはあまり理解されていません。本日はそのような点も含めてご紹介していきたいと思います。
目次
1、【3P分析】ポール・セザンヌについて
それでは早速セザンヌについて、3Pで概観していきましょう。
◆Period(時代)
・1839年1月19日に生まれ、1906年10月23日に亡くなります。67年の人生でした。
・セザンヌが活躍した時代は主に19世紀末です。特に、1890年からの15年ほどで傑作を多数残しています。
・ポスト印象派の画家に分類されます。
◆Place(場所)
・南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、裕福なブルジョアの家庭に生まれました。父は銀行家でした。
・1861年に初めてパリに移りますが、以降、エクスとの間を行ったり来たりしながら絵を描きました。
◆People(人)&◆Piece(代表作)
・裕福な家庭に生まれたため、経済的な不安は一切なく、画家としての道を邁進することができました。
・一方で、非常に社交性に乏しく、礼儀にかけていたようで、陽気で社交的なマネとは距離を置いていたようです。
・パリに出てきた当初は、ドラクロワやクールベなどのアーティストに影響を受け、その後、印象派の画風を取り入れ、離れていった結果、独自の描き方、考え方に至ります。
・それが、「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」。これは、セザンヌの名言のひとつですが、この言葉が「セザンヌのスタイル」となり、マティスやピカソといった巨匠に多大なる影響を与えました。
・代表作には、『大水浴図』、『サント・ヴィクトワール山』などがあります。
・遺した作品は、油絵900点、水彩画350点、デッサン350点ほどとされています。
以上がセザンヌに関する基本的な情報になります。
2、ポール・セザンヌを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
さて、セザンヌはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を辿っていきたいと思います。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・父の反対を押し切り画家への道を歩み始める
- 銀行の経営者の父のもと、裕福な家庭に生まれたセザンヌは、父から法律家を目指すように育てられます。
- 10歳の時には、地元のサン=ジョセフ校に入学しました。ここで親友となるのちの小説家・エミール=ゾラに出会いお互いに影響を及ぼします。
- サン=ジョセフ校に通うかたわら、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習い、この頃から本格的に絵画に慣れ親しみ始めました。
- 6年在籍後、父の要望に沿い、1858年、19歳の時に地元のロースクールに入学します。しかし、セザンヌは法律の勉強には全く興味が持てず、アーティストとして生きていくという夢を抱き始めます。
- そこでセザンヌは、父親の再三の反対に対して説得し、結果、認められ画家としての道を歩み始めました。
そして、1861年4月、念願のパリへと旅立ちました。
セザンヌのこの大きな決断の裏には、先にパリに出ていた親友のゾラからの再三のアドバイスがありました。
親友と共に、夢を叶えるために、いざパリへ。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・カミーユ・ピサロとの親交
初めてのパリ。しかし、最初のパリの滞在はわずか5ヶ月で終わりを告げます。
パリに出て通ったのが、画塾のアカデミー・シュイスでした。このアカデミー・シュイスは、のちに印象派として活躍する面々が学んでいました。
そのうちの一人が、のちの印象派の長老であり中心人物だったカミーユ・ピサロです。
セザンヌにとっては、ここでピサロに出会えたことで、後々、ピサロとともにオーヴェルに移り住み、戸外制作や、印象派の技法などを学び大きな影響を受けることになります。
しかし、この最初のパリの訪問時には、周囲の画塾の生徒たちの技術の高さを目の当たりにし、そして、作品をバカにされたりして、自信を喪失します。ゾラはなんども引き止めたようですが、結局、9月に帰郷します。
セザンヌのプライドの高さと、精神的な未熟さがうかがえます。
その後、帰郷後に父の銀行で働きながら絵を描くもうまくいかず、結局、1862年の秋頃にパリに戻ります。
この頃から本格的にモネやルノワールといった印象派の面々と出会い、親交を深めていきました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
・サロンでの度重なる落選と、厳しい批評が続く人生の中盤は「忍耐の時期」
1864年頃から1870年までの間、毎年サロンに作品を提出していたようですが、すべて落選。
一度も入選することなく、普仏戦争に突入します。セザンヌは兵役を逃れ、妻と共にエスタックに滞在しました。
その後、混乱が収束したパリに1872年に戻りますが、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みました。
そして、この地でピサロとキャンバスを並べ戸外制作を熱心に行っていく中で、印象派の色彩を学び、自分の画風に取り込んでいきました。
このピサロとの親交が、結果的に、1874年の第1回印象派展への参加につながりました。
しかし、ここでも評価は散々でした。
結局、1877年の第3回印象派展に作品を出した以降、印象派の手法に疑問を感じ始めたこともあり、印象派というスタイルとは距離を置くようになりました
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
・セザンヌの変容
結局、パリで認められず、煩わしさもあったのでしょう。1878年頃から故郷のエクスと、戦時中に避難していたエスタックに行き来するようになります。
グループ展等に出展するもなかなか評価されず、結局、1895年の初個展まで、大きな機会がないまま、しかし、淡々と制作を続けていました。
そして、ピサロの勧めもあり、1868年頃から1895年までの集大成の約150点の油彩画をもとにして、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で「初の」個展を開催しました。この時すでに56歳になっていたセザンヌ。
しかし、結局この時も批評家からの評判はいまひとつでした。一方で、周囲のクリエイターたちは、彼の作品の革新性に気付き始めていました。特に、1890年以降、亡くなるまでの間、セザンヌの作風は進化し続け、傑作が数多く生み出されました。
『サント・ヴィクトワール山』『カード遊びをする人々』『水浴図』などの傑作シリーズが生み出され、セザンヌは積極的に作品を発表するようになっていきました。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
・印象派を超えて生み出された20世紀美術へのバトン
最晩年には、評論家等からの反応は相変わらずいまいちだったものの、特に、芸術家たちの間でセザンヌの絵は評判になっていました。
その中でも、若き画家のエミール・ベルナールは、セザンヌが拠点を持っていたエクスに1ヶ月ほど滞在し、セザンヌの日々の様子を記録しました。
そのような交流の中で、セザンヌとベルナールとの間で手紙がやりとりされていますが、以下の有名な言葉が出てきます。
自然を円筒・球・円錐によって扱いなさい
この言葉は、晩年のセザンヌが多用していた言葉「レアリザシオン」を理解することで、その真意が見えてきます。
「レアリザシオン」とは、「感覚の表出、表現」のことであり、セザンヌの晩年の制作態度を表すキーワードです。
セザンヌは、自然を表現する際に、自然を観察した上で、セザンヌの内にある「感性」という個人の感覚で解釈して、それを形体化することを目指しました。
もっと簡単に言えば、
「自分がみた景色を、自分の感性にしたがって、再構成して、画面上に描く」
ということに他なりません。
その「セザンヌの感性」が上記の「円筒・球・円錐によって表現する」ということだったのでしょう。
そして、このような制作態度や作品、言葉がヒントとなり、フォービスムやキュビズムといった20世紀を形成する美術様式につながったとされています。
このような功績を讃えて「近代絵画の父」と称されることもあります。
3、セザンヌの7つの作品
セザンヌは、モチーフを様々な角度から捉え、多視点で絵を描きました。
二次元という画面の世界に、普通ではありえない「モチーフの捉え方」を「様々な角度から描く」ことで、「多元性を表現」したのでした。これは、絵画にしかできない二次元としての役割であり、絵画の新たな可能性を開く「アートとしての絵画」へと繋がっていきました。
ここでは、時代ごとに、7つの主要な作品をご紹介していきます。
①「レヴェヌマン」紙を読む画家の父
初期の有名な作品。クールベのリアリズムに影響を受け、そのパレットナイフを用いた制作方法を真似して制作されました。父は正面に描かれていますが、椅子の角度が斜めになっており、椅子の縁に腰掛ける姿は、見るものを自然と緊張させます。また、画面が暗い色で表現され、重苦しい雰囲気を感じさせます。
画家の道を進むことを渋々了承した、「経営者であり、厳格な父」という内面が浮かび上がってくるようです。
また、タイトルの「レヴェヌマン」は、親友だったゾラが美術批評を行っていた新聞です。セザンヌの父は普段はこの新聞を読んでいなかったとされており、親友のことを思いながらこの新聞に差し替えたのでしょう。
② オーヴェルの首吊りの家
1874年に第一回印象派展で展示した作品のひとつ。ピサロの影響を受け、移住したオーヴェルとポントワーズの風景を描いていた時の作品です。以前の暗くて重い雰囲気から解放され、画面は明るい色調へと変化しています。一方で、非常に複雑な構成で、見るものに窮屈な印象を与えます。
発表時は困惑をもって迎えられましたが、初めてコレクターの手に渡った作品でした。
③ カード遊びをする人々
セザンヌは全5枚の『カード遊びをする人々』を描きましたが、この作品は一番最後に描かれたされる、もっとも有名なバージョンです。故郷のエクスで描かれました。
- 1890年代は、イタリアのカラヴァッジョに影響を受け、彼の残した作品のテーマに取り組んでいた時期にあたります。これもそのひとつです。
- 右手の男性は、セザンヌがよく目にしていた農民をもとにして描かれており、また、左手のパイプをふかしている男性は、庭師の男性がモデルとなっていると言われています。
- また、その他の面白い解釈として、向かい合って「カードを手に闘っている二人」は、セザンヌと彼の父親を暗示しているのではないか?とも言われています。父はすでに1886年に亡くなっていました。
従って、父の死後も、彼の中に残っていたわだかまりという名のネガティブ感情が煮えきらず、絵を通じて表出されてきたのかもしれません。面白い解釈ですね。
④ リンゴとオレンジのある静物
1899年に制作された6点の静物画のシリーズのひとつ。
静物画は、ロココ美術の時代に生きた、フランスの静物画のマスター画家シャルダンの時代から、伝統的なジャンルとして制作されてきました。
セザンヌは、この「リンゴとオレンジ」という静物を描く際の非常に一般的なモチーフを、独自の感性と理論で再構成し、「多面的な視点」を画面に表現することに成功しています。そして、この静物画というジャンルを新たな表現へと昇華しています。
この中央に描かれた1つのリンゴが、画面の中心となり、まっすぐにこちらを見つめているようです。
実は、このリンゴにはゾラとの逸話があります。かつて、深い友情を結んだゾラ。晩年には、疎遠になってしまったようですが、実は、幼少の時、いじめられていたゾラを助けたのがセザンヌで、それから親友として、お互いの人生に影響を与えあっていきました。
セザンヌがゾラを助けた際に、ゾラから御礼にもらったのが「りんご」でした。
この「りんご」というモチーフは、セザンヌにとって、生涯変わらない「友情の証」だったのかもしれません。
私はセザンヌの静物画の中でこの作品がもっとも好きです。
⑤ 積み重ねた骸骨
1900年代に入り、セザンヌが描き始めたのがこの「頭蓋骨」でした。この頭蓋骨をなぜモチーフに選んだのか?
・「自身の死を感じ始めたこと」があげられます。1890年頃から糖尿病で体調を崩し始め、健康が蝕まれていく中で、20世紀に突入した「時代の転換点」。先がそう長くないことを悟り始め、モチーフに選んだと考えられるでしょう。
・加えて、「頭蓋骨というモチーフの造形的な美しさ」が、リンゴやオレンジ等の静物と同様に、「描く対象」として魅力的に感じていたとも言われています。
・さらに、敬虔なるクリスチャンであったセザンヌにとって、骸骨というモチーフは、死を悼むという意味もあったされています。セザンヌの母は、1897年に亡くなりましたが、この「死」もひとつのきっかけとなったかもしれません。
⑥ サント・ヴィクトワール山
セザンヌといえば、この山「サント・ヴィクトワール」がもっとも有名かと思います。数十年にわたって、何百もの数を描き続けてきたこのサント・ヴィクトワール。
最初のバージョンは、1880年代に描かれ始めます。
同じ場所を描き続けたからこそ、この大きな変化が見て取れます。
このサント・ヴィクトワール山という場所を、飽きることなく、半生にわたって描き続けたセザンヌは、「これでもか!」というくらい、自然の風景を観察し続け、そして、その度に自分の中に湧いてくる「感性」を、画面にあらわし表現し続けたのです。
つまり、「同じ見方など二度とない」ということであり、「捉える心によって、描かれるものは変わっていく」という真理にたどり着いたのでしょう。
⑦ 大水浴図
その名の通り、セザンヌの水浴図の中でもっとも大きな作品で、7年以上の歳月をかけて制作し、未完成のまま亡くなった作品です。
女性の裸体が抽象化され、普遍化されています。左右対称の画面に描かれるのは、水浴する女性たちというモチーフをもとにして再構成された「物質」であり、絵画が「抽象の世界」へと突入することを暗に示しています。
これから来るフォービスム、キュビズム、そして、その後に生まれてくる「抽象表現主義」という未来を、セザンヌという画家が切り開いた、最晩年の傑作です。
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以上、セザンヌの生涯と主要な作品についてご紹介してきました。
晩年には、パリの画家たちとの影響から身を切り離し、自然と向き合う中で、自分だけのオリジナリティーを発揮した作品を制作し、歴史を変えたセザンヌ。
日本にも大原美術館(岡山)や、アーティザン美術館(東京)、国立西洋美術館(上野)など、数多くの作品が所蔵されています。是非、実物をご覧いただけたらと思います。