こんにちは!ゼロアートのMisaです。
クールベに代表される「写実主義(リアリズム)」には、
広義で、この画家ジャン=フランソワ・ミレーを含めます。
今回は、日本でも多くの人に愛されている画家ミレーの生涯と、
その代表作である「落穂拾い」と「晩鐘」についても解説していきたいと思います。
目次
1、【3P分析】ジャン=フランソワ・ミレーについて
早速、3P(Period/Place/People・Piece)でミレーについて概観していきましょう。
◆Period(時代)
・ミレーは、1814年10月4日に生まれ、1875年1月20日に没します。61年の人生でした。
・従って、ミレーが生きた時代としては、19世紀となります。
◆Place(場所)
・フランスのノルマンディー地方のグリュシーというで、農家の息子として生まれます。
・パリと故郷を行ったり来たりしながら活動していましたが、1849年にバルビゾンに移住し、バルビゾンが終の住処となりました。
◆People(人)& ◆Piece(代表作)
・ミレーは、農家に生まれたこともあり、その農民の様子を描くことは必然であり、運命だったと言えます。
・陰鬱な性格だったと考えられ、また、偏頭痛やリウマチの症状に長い間悩まされていました。
・代表作は「落穂拾い」や「晩鐘」などが有名です(後述)。
以上がミレーに関する基本的な情報になります。
2、ミレーを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
では、ミレーはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を少し深堀りしていきましょう。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・農作業のかたわら、絵を描き始めた
父が農家のかたわら、絵を描くことがあったようで、ミレーもこれに影響を受けたようです。
ミレーは、農作業を手伝いながら、写生をするなどして絵に親しんで行きました。
ミレーが18歳の頃、「腰の曲がった老人が歩くポーズ」を木炭で素描したところ、両親がその素晴らしさに感動し、シェルブールの画家ムシェルの画塾に送り込みました。
これがミレーが農作業をやめ、画業としての道を歩み始めました。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・師匠のラングロワとの出会いがパリへ導く
18歳から、故郷のグレヴィル村から20kmほど離れたシェルブールの画塾へ送り出されました。
途中、父が亡くなったため、故郷に戻りますが、祖母の強い希望によりシェルブールに戻りました。
そこで出会ったのが、新古典主義の巨匠であるジャン・グロの弟子だったラングロワでした。
ラングロワとの出会いによって才能を見出されたミレーは、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学することを薦められました。そして、ラングロワの協力や奨学金を獲得したこと等によって、1837年1月からパリで学ぶことになりました。
ラングロワという「世界一の文化都市・パリを知っている画家」との出会いがなければ、ミレーはパリに行くことを決められなかったでしょう。
また、ミレーを特に可愛がっていた祖母の後押しがなければ、画家になることはなく、一介の農民として一生を過ごしていたでしょう。
そういった点で、祖母の後押しと、ラングロワとの出会いが、画家として優れた作品を残す運命へと導き繋がっていきました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
・ローマ賞とサロンへの落選と師匠との不和
いざパリで学ぶことになったミレーでしたが、パリを「暗くて、曇っていて、煙い町」と評し、なかなかパリという町には馴染めませんでした。
その原因のひとつは、エコール・デ・ボザールでの師匠とうまくいかなかったことでした。
ミレーは、高名な歴史画家ポール・ドラローシュに学びましたが、ドラローシュに「オランウータン」と揶揄されたことなどもあり、授業にはあまり出席しませんでした。
一方で、ルーブル美術館に足繁く通い、ニコラ・プッサンやミケランジェロ作品の模写などに精を出し、影響を受けていきました。
ミレーは、当時の画家の出世コースであるローマ賞に応募しましたが、ドラローシュの推薦を得られず、落選。
そして、この一件でエコール・デ・ボザールを去ることを決断しました。
この頃、サロンにも作品を応募していますが、落選しています。
1839年、ミレーが25歳頃の時でした。
・妻の死と帰郷
その後、1840年代になると、画家として少しずつ世間に認められるようになっていきました。
1840年に、親友マロルの父親を描いた『ルフラン氏の肖像』がサロンに初入選します。
これを機に、シェルブールに戻ります。そして、1841年、最初の妻となるポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しました。
肖像画家として成功し始めていたミレーは、さらなる成功を夢見て、翌年に妻とともにパリに戻ります。
しかし、パリの不衛生な環境が災いして結核にかかった妻は、1844年に亡くなってしまいました。
これに大きなショックを受けたミレーは、再び故郷に戻りました。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
・1848年のサロンでの成功とバルビゾンへの移住
その後、失意の中故郷に戻ったミレーは、のちに2番目の妻となるカトリーヌ・ルメールと出会います。
1845年に再びパリに戻ったミレーは、この頃に、コローやルソーなどの後のバルビゾン派となる仲間たちと出会いました。
その後、1847年のサロンでは、『樹から降ろされるエディプス』が入選。
1848年に2月革命の影響で無審査となったサロンが開催され『箕をふるう人』が政府買い上げとなりました。その結果、共和国政府から絵画制作が依頼され『刈入れ人たちの休息』を提出しました。
1849年にはパリでコレラが流行したこともあり、政府から得た報酬を元にして、家族や仲間たちとバルビゾンに移住します。
結局、ミレーにとってバルビゾンは終の住処となり、「バルビゾン派」が誕生します。
・「種まく人」(1850年)「落穂拾い」(1857年)の発表への賛否両論の勃発と、画家としての成功
その後もサロンに出品を続けていきますが、その評価は一進一退でした。
1850年に出品された「種まく人」は、ミレーの農民画の初期代表作ですが、当時、物議をかもしました。
これは、農民の貧しい生活を克明に描くことが、政治的なメッセージであると捉えられたためです。
また、「落穂拾い」も同様の批判が巻き起こりました(詳しくは後述)。
この時期には、ミレーの代表作である「晩鐘」も制作されるなど、ミレーを代表する作品が数々生み出されました。
1860年代に入ると、ミレーは経済的にだいぶ安定していきました。特にこの頃までは経済的に貧しい状況が続き、ミレーはそのことについていつも嘆いていたようです。
そして、1864年のサロンで発表した『羊飼いの少女』は、好評を博して1等賞を獲得。この頃から成功が加速して行った結果大きなチャンスが舞い込みます。
1867年には、日本が初出展したことが話題になり「ジャポニズム」がパリでも流行することになった「パリ万博」が開催されます。
ミレーは、この時に一室を任されることになり、『落穂拾い』や『晩鐘』をはじめとする全9点を出品し、53歳にして巨匠としての名声を確立しました。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
ミレーは、長年、偏頭痛とリウマチに悩まされていたようです。そして、死の直前までこの症状と闘っていました。
最後は、1874年にバルビゾンの自宅で息を引き取りました。61年の生涯でした。
ミレーは、次のような言葉を残しています。
「私は人生の楽しみというのを経験したことがない。それが何かを知らない。私が知っている最も楽しいことといえば、平静と沈黙である」
彼は非常に憂鬱な、ネガティブな人間だったのでしょう。
農村で育ち、自然と暮らしてきたミレーは、パリに出てきて、「高尚な画家」にいじめられるなどした嫌な経験によって、パリそのものに対して「劣等感」や「悲観」を抱えていたのだと思います。最初の妻が結核で亡くなったことも拍車をかけていると考えられます。
一方で、自然の素晴らしさを生まれた時から知っているミレーは、その「原風景」を描くことで新たな絵画表現をつくりだしていきます。そのようなアイデンティティーは、パリという喧騒の中に身を置くことによって、より一層強調されていったのでしょう。
そして、貧しい農民や農村の風景を描くことが、「清貧さ」や「一生懸命生きる人々」という「貧しくても美しい」表現として、人々に受け入られていき、また、多くのアーティストに影響を与えることになりました。
ミレーの「宗教的モチーフが不在の農民を描いた作品」は、好景気のアメリカに受け入れられていきました。
「プロテスタンティズムとしての勤勉さという性質」にマッチした結果だと考えられています。
また、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、特にミレーからの影響を強く受けており、同じ題材でたくさんの絵を描きました。
このようなリアリズムの動きが、マネやモネ、ゴッホといった近代絵画の扉を本格的に開ける人々に繋がっていきました。
そういった意味で、ミレーは、戸外制作で風景を描いた「印象派」という近代をつくりだすのに不可欠な役割を担い、新たな絵画の潮流をつくる使命を果たした一人だと言えるでしょう。
※動画でも解説しています!理解が深まると思いますので、よろしければ以下もご覧ください!
3、ミレーの5つの代表作を解説!
最後に、ミレーの代表作について少し詳しく紹介していきたいと思います。
① 種まく人
1850年、油彩、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館
ミレーの最も有名なテーマのひとつであり、繰り返し描いた題材です。ミレーは、農民の人々の内面を深く描くことを主眼として制作しました。
ミレーは1850年にパリのサロンで始めてこの作品を発表しましたが、本人の意向とは違い、議論の的になります。これは、最下層の「農民」を英雄的題材として描くことについて、政治的な意図があると考えられたからでした。当時は、フランスの農村部の人々の貧困さが問題となっており、富裕なブルジョワジーへの批判として描かれたと解釈されました。
この題材には、ゴッホも非常に影響を受け、同じテーマで制作を行っています。
『日没の種まく人』1888年6月、アルル。
油彩、キャンバス、64 × 80.5 cm。クレラー・ミュラー美術館
② 落穂拾い
1857年。油彩、キャンバス、83.5 × 110 cm。オルセー美術館
当時、落穂を拾うことができるのは、生計を立てることが難しい、特に貧しい人々だけでした。
つまり、収穫後の麦の落穂を拾うことで生活の足しにしている様子を描いています。
この題材がまたも議論を呼び、農民の美徳を描いていると賞賛する者の一方で、保守派からは激しい非難を受けました。特に、農民が落穂を拾う様子の後方には、農場主と思わしき人物がうっすらと描かれており、この「二極化した現実」を描いているのではないかといった批判などがありました。
③ 晩鐘
1857-59年、油彩、55.5 × 66 cm、オルセー美術館
ボストン生まれの作家で美術収集家のトマス・ゴールド・アップルトンがミレーに依頼して制作された作品。
晩鐘が鳴らされたことを合図にして、農民が祈りを捧げる様子を描きました。
画面下部には、ジャガイモが描かれていますが、このジャガイモというモチーフは、それまでの西洋美術の歴史の中では忌み嫌われていたモチーフでした。というのも、ジャガイモは貧しい者が食べ物に困った時に食するものとされていたからです。これは、かつては、ジャガイモの芽に含まれる毒性成分を知らず、一緒に食べることで命を落とす人もいたからだとされています。
絵から鐘の音の余韻が聞こえてくるような静けさを感じる作品です。
④ 春
1868-73年。油彩、86 × 111 cm、オルセー美術館
ミレーの最晩年の作品のひとつ。ルソーのパトロンだったフレデリック・アルトマンに1868年に依頼されて制作された作品。この四季というテーマは非常に伝統的なもので、ニコラ・プッサンをはじめとして様々な先人たちが描いたモチーフでした。
ミレーは、この四季について、自然を意図的に、より大胆に描きました。このような表現は、印象派として知られるようになるモネやバジールなどの表現とも非常に近しいと言えるでしょう。第一回目の印象派展が1874年なので、当然、印象派が世に知られる前のことですが。
春は、1873年5月に、夏と秋も1874年に完成しますが、冬は未完成のまま亡くなってしまいました。
私がミレーの晩年の作品の中で最も好きなものです。
⑤ 松明での鳥の猟
1874年、油彩、73.7 × 92.7 cm、フィラデルフィア美術館
亡くなる直前の作品。ミレーが幼少のころに経験したシーンを元にして制作されました。
夜の間に木々の中に住処をつくったところを、松明(たいまつ)で目くらましして、鳥を狩猟しているシーンです。
ミレーの作品の中では、明暗の対比が強く描かれており、非常に劇的な場面が描かれています。
まるで天使たちが自然の中で格闘しているような、その一瞬の動きを切り取り表現している場面が、非常に印象に残る作品です。最晩年のミレーが、これから新たな展開にチャレンジしようとしていたのでしょうか?
その後のミレーの作品を見たくなる、死の直前の作品です。
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以上、リアリズムの画家・ミレーについてご紹介してきました。
この時期のフランス美術界には、次々と時代を変えていく新たな流れが出てきます。
このミレーの流れをさらに拡大させたのが、同時代に生きた、少し後輩の画家エデゥアール・マネでした。
次回は、このマネについてご紹介したいと思います。