こんにちは!ゼロアートのAkkoです。
今回は、印象派の先駆けとして知られ、
リアリズムと印象派をつなぐ役割を担った
画家エドゥアール・マネについてご紹介します。
動画でも解説しています!
目次
1、【3P分析】エドゥアール・マネについて
早速、3P(Period/Place/People・Piece)でマネについて概観していきましょう。
◆Period(時代)
・エドゥアール・マネは、1832年1月23日に生まれ、1883年4月30日に没します。51年の人生でした。
・従って、マネが生きた時代は、19世紀となります。
◆Place(場所)
・パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれます。父は裁判官であり、母は外交官の娘。両家の血筋を持った筋金入りの名家の家庭の子でした。
・生涯を通じてフランスを拠点とし、ほとんどをパリで過ごしました。
◆People(人)& ◆Piece(代表作)
・マネは、父の期待に応えることを第一義に考え、当時の成功のための登竜門であるサロンで入選することを目標に画家になりました。
・マネは、自分の作品について説明したり評した記録がほとんど残っていません。「言いたいことは全て作品で表した」ということでしょう。
・一方で、マネは、陽気で議論好き、そして、非常にプライドが高く繊細なパリジャンだったと考えられます。現に、「草上の昼食」や「オランピア」を発表した際には、その批判の大きさに大変傷つき、パリからスペインに「脱出」しました。
・代表作は「草上の昼食」「オランピア」です(後述)。
以上がマネに関する基本的な情報になります。
2、マネを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
では、マネはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を少し深堀りしていきましょう。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・父の反対と、渋々の承諾によって始まったアーティストとしての人生
マネは、このように、非常に「ちゃんとした家庭」に生まれたため、父も母も、法律家などの「ちゃんとした職業」に就くことを願っていました。
伯父であるエドゥアール・フルニエは、マネをはじめとする3兄弟をルーブル美術館にしばしば連れて行ったようです。
マネはこの頃から絵画に興味を持つようになっていき、伯父から絵を習ったりして、画家への道を志すようになります。
しかし、特に父はこれに反対し続け、マネを諭します。そのため、マネは海兵になることを宣言し、海兵試験を受けますが、結局2度とも失敗。
結局、父はしぶしぶマネが画家になることを了承しました。
マネは画家としての成功を目指し、アーティストとしての人生が始まります。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・歴史画家のトマ・クチュールと、巨匠作品たちとの出会い
1850年、18歳の頃から6年間は、画家のトマ・クチュールのもとで学びます。師匠のトマ・クチュールは、歴史画家として、ローマ賞(画家の成功の登竜門となる賞)を受賞した、実力ある画家でした。
その合間には、ルーブルで巨匠たちの作品を模写して腕を磨いていきました。
1853年からの3年ほどは、ドイツ、イタリア、オランダを旅するなどして見聞を広げました。
そして、ベラスケスやゴヤといったスペインの画家たちから大きな影響を受けました。
1856年には独立してスタジオをオープンし、画家としての成功を目指して、サロンに出品し始めます。当時のサロンは隔年で開催されていたので、2年に一度で進んでいきます。
・1859年に、「アブサンを飲む男」をサロンに初めて提出しましたが、落選。この作品は、ギュスターブ・クールベによって掲げられたリアリズムのスタイルを取り入れ「身の回りのものをありのままに描いた」のでした。
・1861年には、『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』で初入選し、『スペインの歌手』は優秀賞を受賞しました。
・1863年のサロンは審査が厳しく、4000点以上が落選しました。アーティストたちは審査に不満を漏らしたため、時の皇帝ナポレオン3世が「落選展」を開催します。
そして、この落選展で『草上の昼食』を発表すると大きなスキャンダルとなります(理由は後述)。
・カフェ・ゲルボワという「溜まり場」の仲間たち
1864年頃に引っ越したマネは、この頃からカフェ・ゲルボワに通うようになります。
この場所は、様々なクリエイターが集まって、夜な夜な議論に花を咲かせていたようです。
モネやルノワールなどの印象派の画家もここでマネと交流していました。このようなクリエイターたちに囲まれ、マネはいつもその中心にいたようです。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
・世紀の革新は、世紀の嘲笑から始まる
1864年以降は、再びサロンが毎年の開催へと変更されました。1863年以降のサロンでは、特に酷評され大きなスキャンダルに見舞われます。いわゆる「大炎上」を経験しました。
- 1863年、『草上の昼食』を提出し落選。特別に開かれた落選展で同作品を出展しましたが、激しい非難にさらされスキャンダルに
- 1864年のサロンでは、『死せるキリストと天使たち』と『死せる闘牛士』(画面半分のみ現存)を提出し、入選しますが、『死せる闘牛士』はまたも批判され、マネは絵を真っ二つに切断しました。
- 1865年のサロンでは、『オランピア』で入選。しかし、この作品が、『草上の昼食』以上に大きなスキャンダルを呼びます。
なぜ、この作品がそこまで「大炎上」したのか、詳しい理由等は後述しますが、この1枚によってモネは多くの人から嘲笑され、酷評されました。
どうやら、この一枚の絵によって、マネはパリ中で批判されたため、ひどく落胆したそうです。逆に言えば、そこまでこの絵の評判が多くの人々に伝わったということでしょう。
この出来事をきっかけに、マネはパリを脱出し、スペインに傷心?旅行します。
そして、この旅が、マネをさらなる新しい表現へと掻き立てていきます。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
・スペインで出会ったベラスケスからの影響
そして、スペインでベラスケスの作品「道化師パブロ・デ・バリャドリード」と出会い、大きな影響を受けます。この作品には背景がないことに非常に感銘を受けたようです。
その結果生まれたのが、「笛を吹く少年」です。しかし、この作品も同様に酷評されます。
・保守的なフランスでの評価は・・・
このあともマネは作品を描き続けますが、サロンという「伝統的な絵画が評価される場所」では、その評価は一進一退でした。
結局、1881年のサロンで『アンリ・ロシュフォールの肖像』が銀メダルをとると、これによってようやく、サロンに無審査で出品できるようになりました。
加えて、幼少の頃からの親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけのおかげで、マネの念願だったレジオンドヌール勲章を受章することができました。
しかし、この時期と前後して、梅毒に悩まされ、左足の壊疽が進んでいきました。
そして、1881年から、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作を開始し、1882年のサロンに出品しましたが、結局、これが最後のサロンとなりました。
マネは、結局、1883年に亡くなるまでの間、フランスの伝統的な美術界の中ではそこまで高くない評価のまま生涯を終えました。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
・美術史のターニングポイントをつくった画家
一方で、彼の作品は、当時のアーティストをはじめとするクリエイターたちに大きな影響を与えました。
印象派、そして、その後に続くポスト印象派の画家たちはもちろんのこと、ピカソといった巨匠にも影響を与えることになりました。
結果的に、アメリカで高く評価され、20世紀にはその功績が広く認められるようになりました。
そして、現代では、「近代絵画へのターニングポイントをつくった画家」として、美術史上に燦然と記録されています。
彼を一言で表すのなら、「早すぎた革新的画家」でしょう。
結局、パリという伝統的な美術界において、彼が描いた数々の作品は「異端」であり、「時代が追いつかなかった」と言えるでしょう。51年という比較的短い人生だったことも、その結末を見届けることができなかった理由として挙げられます(印象派等が国内で本格的に評価され始めたのは、1890年代からでした)。
しかし、彼が「大スキャンダル」「嘲笑」を浴びて「大炎上」した「草上の昼食」「オランピア」のおかげで、後に続くアーティストが勇気をもらい、新たな流れができてきたことが、歴史的転換点をつくった、マネというパリの生粋の紳士が果たした、使命だったのです。
そして、生涯を通じてそのような「チャレンジ」を繰り返してきた彼の「折れない心」は、周囲のアーティストたちの勇気となり、そして、「熱く議論をかわす陽気な紳士の心」は、アーティストから多くの尊敬を集めました。
そんな「画家としての人生を全うしたマネ」は、一人の人間として、非常に幸せな人生だったのではないかと思います。
3、マネの3つの代表作を解説!
最後に、マネの代表作について解説して紹介していきたいと思います。
① 草上の昼食
1863年にサロンに提出し落選し、「落選展」で展示され大きな批判の的となった作品。
では、この絵はなぜ批判されたのでしょうか?
一つ目は、描かれているモチーフが、「現実の女性」であり、「娼婦を匂わせる」「下品な」ものだったからです。当時、女性の裸体を描く場合には、神話等の「想像上の存在」を描くことが多かった一方で、マネの当該作品は、「現実の娼婦のようにも思える女性」と「服を着た紳士」とを並べて描いたことが問題視されました。
二つ目は、描き方が、「省略された」「スケッチのような描き方」だったためです。また、遠近法も用いられていないなど、「描き方が全くセオリー通りでない」という批判でした。
加えて、マネは、この絵画を、クールベと同じように「歴史画サイズの画面」に描きました。これは、ルネサンス期ヴェネチア派の巨匠ティツィアーノの作とされる『田園の奏楽』や、ルネサンスの三万能人のひとりであるラファエロが描き版画化された「パリスの審判」といった、イタリアやギリシャの「伝統絵画」にインスピレーションを受けたとされています。
このような「伝統と革新」の間に立って、マネは「新たな時代に沿った絵画への挑戦」を表現したと考えられます。しかし、発表当時はなかなかそのような表現は受け入れられませんでした。
② オランピア
マネの代表作であり、歴史に名を刻んだ記念碑的作品です。
発表当初は『草上の昼食』以上に激しい非難を巻き起こしました。
簡単に言えば、「卑猥なものをサロンという神聖な場に出すなんて、ふざけてんのか!」という批判でした。
・モチーフである「オランピア」とは、当時の有名な娼婦だったこと。乱れたベッドの上に横たわる娼婦は、「こと」が終わったあとの状況を連想させるという点、また、その女性が「まっすぐにこちらを見遣っている」「眼差し」は、非常に直接的で、「下劣」と非難されました。
・描き方についても、背景の遠近感がなく、伝統的な描き方に沿っていない
つまり、これは「美しい絵画」ではなく「ただのポルノ」だと言う認識だったわけです。
一方で、この作品は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』からインスピレーションを受けています。
その構図を借用して描かれており、この点でも彼なりに「先々の巨匠へのリスペクト」を表明していると言われます。
しかし、サロンという「神聖で」「伝統的な」場所に出す作品として、こんなにひどいものはない、と一蹴されたわけです。気がふれていると思われたのでしょう。
そして、このような「想像を超える批判」が飛び交った結果、マネはひどく打ちひしがれスペインに旅立ちました。
③ フォリー・ベルジェールのバー
2019年から2020年にかけて、東京、名古屋を巡回したコートールド美術館展で来日した目玉作品。
マネがなくなる直前の最後の大型作品であり、亡くなる前年にサロンで展示された作品です。
この作品も、多様な見方が可能な作品であり、様々な解釈がなされてきました。
フォリーベルジェールのバーは実在した場所であり、さらにこの中心に描かれている女性は、実際にこのバーで働いていたSuzonでした。
しかし、このような実在したモチーフをベースにしているにもかかわらず、非常に幻想的な雰囲気が漂う作品に仕上がっています。
そのような「効果」が生まれる理由としては、女性の後ろにある「鏡」が挙げられます。
この鏡によって、現実と鏡の中の光景との境界が曖昧になり、「非現実的なシーン」を生み出しています。
フォリーベルジェールのバーは、伝説的なミュージックホールであり、ベルエポックの時代に人気を得ていた場所でした。また、この場所は社交場としての側面をもち、娼婦も多く行き交っていた場所でした。
マネはこのように、あくまでも「パリの表には出ない、でも、日常的な光景」を中心に最後まで描き続け、51年の生涯を終えました。
*
エドゥアール・マネの生涯と代表作について解説してきました。
マネがなぜ歴史に残る画家となったのか、お分かりいただけたかと思います。
マネの作品を見て、「美しいな」と思う方は少ないと思います。
従って、このマネの作品の登場から「美術」ではなく、本格的に「アート」の世界に突入し始めるのです。
これが、マネを、リアリズムと印象派の橋渡し的な存在として、「モダンアートの父」と位置づける理由です。
そして、印象派やポスト印象派という「描き方の革命」へとつながり、20世紀初頭に登場する「キュビズム」という「なぜすごいのかわからない作品」が生まれていくのです。
次回は、印象派の名前のきっかけとなったクロード・モネについて見ていきたいと思います。