こんにちは!ゼロアートのAkkoです。
今回は、モネやルノワールといった印象派と同時代に生き、
セザンヌ、ゴーギャンと共にポスト印象派を形成した、
知らない人はいない画家・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて、ご紹介します。
目次
1、【3P分析】ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて
早速、3P(Period/Place/People・Piece)でゴッホについて概観していきましょう。
◆Period(時代)
・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、1853年3月30日に生まれ、1890年7月29日に没します。37年の人生でした。
・従って、ゴッホが生きた時代は、19世紀末となります。
◆Place(場所)
・オランダのズンデルドで生まれます。父ドルスは、オランダ改革派の牧師でした。
・オランダ、イギリス、ベルギーなどでの滞在を経験し、最終的には、フランスのパリ、アルル、サン=レミと移り住んで行き、オーヴェルで生涯を終えました。
◆People(人)& ◆Piece(代表作)
・画商になり、教師になり、伝道師になり、たどり着いたのが画家という道でした。
・その道すがらは、ゴッホの「性格」が災いし、自らの人生の歩みを苦しめました。
・癇癪持ち、極端、執拗な性格の彼は、人と人との交流を持ちたいと思う一方で、人々から拒絶されることが多く、苦労の多い人生でした。
・代表作は、「星月夜」「ひまわり」などがあります。
以上がゴッホに関する基本的な情報になります。
2、ゴッホを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
では、ゴッホはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を少し深堀りしていきましょう。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・画家としての人生はたったの10年
ゴッホが画家になるまでがまた、人生の紆余曲折を感じさせるストーリーとなっています。
そこまで27年かかっています。その「人生年表」をハイライトでご紹介します。
- 1853年(0歳) ベルギー国境近いオランダのズンデルトに生まれる。父ドルスは牧師
- 1866年(13歳) ティルブルフの中学校に入学、15歳のとき中退し、故郷ズンデルトヘ戻る
- 1869年(16歳) 美術商であるグーピル商会に就職(ハーグ、ロンドン、パリに滞在)
- ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになりました。
- 1874年冬頃から、エルネスト・ルナンの『イエス伝』などでキリスト教への関心を急速に深めます
- 1876年(23歳) グービル商会を解雇。イギリスの学校で仏語と独語を教えるが、すぐに辞めてしまう
- 解雇理由の一つは、無断で実家に帰ったこととされています。この件は両親を失望させました。
- ジョージ・エリオットの『牧師館物語』や『アダム・ビード』を読んだこと等で、伝道師になりたいという気持ちが大きくなります。
- 1877年(24歳) 書店勤務ののち、ブリュッセルの伝道師養成学校に入学。伝道師の資格は得られず
- 王立大学を目指して勉学に励みましたがうまく行かず、追い詰められたゴッホは、杖で自分の背中を打ったりというような自罰的行動に走りました。
- 1878年(25歳) ベルギーのボリナージュに行き伝道師として活躍
- 1879年1月から、熱意が認められ仮免許と月額50フランが与えられることになりました。
- しかし、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたゴッホは、人々の理解をなかなか得られませんでした。
- 教会の伝道委員会も、ゴッホの過度な自罰的行動をとがめますが、ゴッホは拒絶。結果、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られてしましました。
- 1880年(27歳) ブリュッセルで素描を学ぶ
- その後、フラフラしていたゴッホですが、1880年に伝道師の知り合いが住むクウェムに移り住み、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、画家として歩んでいくことを決めます。
- 10月には、絵を勉強するために、思い立ったままブリュッセルを訪れます。ここでもデッサンを繰り返し、遠近法や解剖学のレッスンを受けるなどしていました。
ゴッホは、画家として生きていく中で、農民画家のミレーに特に影響を受け、代表作の「種まく人」にインスピレーションを受け、多数の同タイトルの作品を制作しました。
また、日本の浮世絵からも多大な影響を受け、浮世絵を盛り込んだ作品を制作しました(後述)。
このように画家としての人生を始めるまでに、多くの人生経験を積んできたゴッホ。
亡くなるまでの10年間で、大量の絵を描きました。
では、その道すがら、どんな人々が彼を支えたのでしょうか?
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・弟テオによる経済的、精神的な支え
- 生涯にわたって、ゴッホを支援したのが、弟であり画商だったテオドルス・ファン・ゴッホ、通称「テオ」でした。ゴッホはテオと頻繁に手紙のやりとりをしており、この記録からゴッホの歩みを詳細に知ることが可能になっています。
- テオは、ゴッホも勤務していたグービル商会に勤務しアートディーラーとして成功。モネやドガといった印象派の絵をはじめとして、フランスやオランダの現代美術を取り扱っていました。
- その交流の中で、ゴーギャンやセザンヌ、ロートレックなどの画家をゴッホに紹介し、特に、ゴーギャンとゴッホのアルルへの移住を取りもちました。
- 何よりも、ゴッホはテオの経済的なサポートがあったが故に、画業に専念でき、画家として活躍した約10年の間に、2100点もの作品を残すことができました。
- 彼の、経済的、精神的なサポートがなければ、ゴッホという偉大なる画家は生まれなかったかもしれません。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
・ゴッホの人生は試練の連続
さて、27歳で画家を志してから、37歳でその人生を閉じるまで、どんな試練があったのでしょうか?
画家になるまでの間も、様々な「問題」を引き起こしてきたゴッホですが、
画家になってから最も有名な「試練」と言える事件は「耳切り事件」ではないでしょうか?
耳切り事件については、その原因について様々な「解釈」がありますが、端的に言えば、
「人間関係の悪化と幻覚や発作」によって行われた「行き過ぎた自虐行為」のひとつだったということです。
過去、伝道師になった際も、同様に自分の身体を「痛みつける」ことによって、「自分を罰する」という行動に出ていました。
あくまで推測ですが、彼のこのような行動は、「父親に愛されなかった自分」「父親に認められなかったという悲しみ、後悔や怒り」といったトラウマが引き金になっているのではないかと思います。
- 画商として途中で解雇され、家族を失望させたり、聖職者の父への憧れという偶像が伝道師という道を進ませた「認められたいという感情」、
- そして、父と大げんかした最中に、突然亡くなってしまった父への「深い自責」
このような「溜まりに溜まったネガティブな感情」は、ゴーギャンという共同生活者との度重なる意見の相違によって「着火」されていきます。
そして、「ギリギリのところで保っていた緊張の糸」がある日突然切れてしまい、噴出し、「自分を傷つける」という行動に、衝動的に、走ってしまった。
そんな風に私は考えています。
ただ、この事件は、ゴッホの人生を語る上であくまで「ひとつの結果」にすぎません。
結局のところ、彼は「自らの行き場のない感情をどうやって表現したらよいかわからなかった」のです。
しかし、そのエネルギーの矛先が、絵に向いた時、素晴らしい作品へと昇華されていきました。
一方で、この頃から、ゴッホには「死の影」がちらついてくるのです。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
・ゴーギャンとの別れ。アルルの時代を経て「死」が見えてくる
ゴーギャンと暮らしたアルルの地では、ゴッホの代表作となる作品が数多く生み出されました。
ゴーギャンがくるから、彼をがっかりさせたくない。そんな思いが、制作へと集中させ、そして、実際に傑作が生み出されました。
耳切り事件以降は、残念ながら、「発作」が起きることが多くなっていったようです。
そして、アルルの療養所に移ることを決めます。
この頃に生み出された傑作が、「星月夜」です。
この他にも、「糸杉」をモチーフとして描き始めたり、
また、ゴッホが生涯、尊敬していたミレーの「種まく人」の模写などを制作していました。
サン=レミでの滞在は、1889年5月から1890年5月までの約1年間あまりでした。
ここでは、最後に『糸杉と星の見える道』を描き、体調の回復と共に退院しました。
この二ヶ月後にゴッホは亡くなるのですが、この傑作には、すでにゴッホが「死期が近いこと」を示していると分析する人もいます。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
・四次元の眼を持ち、魂で描いた画家
退院して、オーヴェルという農村へと移り住み、「最後の70日間」をラヴー旅館に滞在します。
医師のガシェと親しくなり、肖像画などを残しています。
1890年7月27日、ゴッホは左胸の下を拳銃で撃った姿でラヴー旅館にたどり着きますが、医師ガシェに見守られながら、29日に亡くなりました。最後は、パリから弟のテオもかけつけ、看取られました。
37年の短い人生でした。
彼の残した作品は、のちのフォービスムの画家たちや表現主義の誕生に多大なる影響を与えました。
ゴッホは、「誰の眼にも見える同じ光景」ではなく、ゴッホの眼にしか見えていなかった「見えないもの」を描き、表現しました。
よくその作風から「激情に駆られて描いた」と表面的に誤解されることもありますが、実のところ、その人生の紆余曲折に裏付けされた「人生哲学」を、対象に真摯に向き合いながら、表現していった「深遠さ」を見て取ることができるでしょう。
「深い感性から放たれる、色彩の激しき美しさ」は、20世紀の新たな美術様式を形成する大きな原動力となりました。
ゴッホの人生については、動画でも解説しています。
さらに理解が深まると思いますので、よろしければ以下よりどうぞ!
3、ゴッホの8つの代表作を解説!
さて、ゴッホの人生ストーリーを見てまいりましたがいかがでしたでしょうか?
続いてこの章では、ゴッホの代表作についてご紹介したいと思います。
ちなみに、ゴッホのアルル時代の代表作のひとつ「夜のカフェテラス」については、拙著「論理的美術鑑賞」でも取り上げていますので、よろしければそちらをご覧いただけましたら嬉しいです。
◆論理的美術鑑賞(翔泳社、堀越啓・著)
本章では、以下の8点の作品を取り上げたいと思います。
① 『タンギー爺さん』
モデルのタンギー爺さんは、パリで画材屋さんを営んでいた画家たちから愛された人物でした。
貧乏なアーティストたちに理解を示し、印象派の画家たちもよく出入りしていました。
この背景には、当時ゴッホが影響を受けた浮世絵が描かれています。日本に強い憧れを持ち、その浮世絵の自由さや色遣いに大きな影響を受けました。
この作品はロダンが生前にコレクションしたとされており、現在もパリのロダン美術館に所蔵されています。
② 『日没の種まく人』
ゴッホが多大なる影響を受けたミレーの「種まく人」を元に制作された一枚。
ミレーが描く農民たちの「リアリズム」に感銘を受け、自然を描き続けました。
アルルの強い日差しが畑を照らし、黄金色に大地が輝いています。左手には2羽のカラスも描かれています。
ゴーギャンが来ることを待ち望み、期待に胸を膨らませていた頃に描いた「光の絵画」です。
③ 「自画像」
ゴッホは数多くの自画像を描いています。その変遷を見ていくだけでも非常に面白く、彼の絵の特徴が「自分との向き合い方」を通じて表現されています。
彼が過ごしたパリの時代から亡くなる直前の自画像まで、5点をご紹介します。
・パリ時代(1886年-1888年初頭)
テオと暮らしていたパリ時代。日本の浮世絵に影響を受け始めた頃です。
ゴーギャンとも交流を持ち始め、アルルへと繋がっていく時代の自画像です。
・アルル時代(1888年-1889年5月)
南仏アルルでの制作時期。ゴーギャンも合流し、明るい色彩の絵が多くなっていきます。麦わら帽子が特徴的な時代です。また、耳切り事件後に自らの自画像を描いています。
・
・サン=レミ時代(1889年5月-1890年5月)
ゴッホ終焉の地。この作品が「最後の自画像」と言われており、ゴッホの母にプレゼントするために描かれました。気のせいか、非常に穏やかに描かれています。ヒゲもなく、すっきりとした表情は「精悍な息子の姿」を母に見せたいと思ったからでしょうか。
全て同じ自分自身を描いていますが、それぞれが全く違う雰囲気であり、エネルギーを感じさせます。
感情の起伏や、その時の心情、そして、場所によって異なる陽気や雰囲気など、様々なエネルギーが「自画像」という自分自身を見る目を通じて、バラエティー豊かに表現されています。
④ 『カラスのいる麦畑』
ゴッホの絶作とされている作品。無数のカラスが畑の上を飛び交っています。
また、空は黒ずんでいて、不気味な感じが漂っています。
大きくうねる麦畑の中心を走る「緑と茶色の道」は、「黒い空」に吸い込まれていく「渡ってはいけない道」なのでしょうか。
ゴッホが自らの死を暗示しているように思う一枚です。
上記に加えて、『星月夜』と『ひまわり』については以下の内容でかなり詳しく解説していますので、よろしければ以下をご覧ください。
*
以上、ゴッホの生涯と作品についてご紹介しました。
死後、彼の名声は大きくなり、稀代の画家として歴史に名を刻み、ご存知の通り、日本人にも広く愛されています。
次回は、ゴッホと共にポスト印象派の巨匠として名を連ねるポール・セザンヌについてご紹介します。