こんにちは!ゼロアートのMickeyです。
前回は、クールベに代表される「写実主義(リアリズム)」についてご紹介してきました。
フランスの美術界に革命が起こったことがお分かりいただけるかと思います。
今回は、次の美術様式にあたる「印象派」についてご紹介してきます。
1、印象派とは?3Pで概観する!
印象派を3つのP(Period/Place/People,Piece)の観点から整理すると以下の通りです;
◆Period(When?)
19世紀半ば以降から
◆Place(Where?)
フランスに興りました。
◆People(Who?)&◆Piece(What?)
以下5人が代表的な人物として挙げられます(詳しくは、後述)
・クロード・モネ「印象・日の出」
・オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』
・カミーユ・ピサロ『赤い屋根、冬の効果(赤い屋根の家々、村の一角、冬景色)』
・アルフレッド・シスレー『ルヴシエンヌの雪』
・エドガー・ドガ『バレエのレッスン』
以上が印象派の概要になります。
◆印象派とは?
さて、では、印象派とはどんな美術様式なのでしょうか?
結論から言えば、
「自らの眼に映った光景を描く美術様式」
です。
「当たり前ではないか」と怒られるかもしれません(笑)が、
当時の時代背景等を鑑みると、これが当たり前ではありませんでした。
つまり、わかりやすく言えば、
「画家は、高尚な、神々や神話等の、現実には見えないモチーフを、美しく描くべきだ!」
という伝統や常識の世界でした。
ここに、
「いやいや、自分の眼に映った光景を、鮮明に、描いていくのが画家の役割でしょ」
と異を唱えたのが印象派です。
20世紀のフランス美術界は、それまで200年あまり続いてきた「伝統的なフランス美術の世界」に対して、革命画家クールベが登場。
さらに、エデゥアール・マネが、「草上の昼食」「オランピア」で大炎上しながらも、「新たな絵画のあり方」を示していきました。
この流れを引き継いだのが、ピサロやモネを代表格とする印象派でした。
では、どのようにして印象派は形成されていったのでしょうか?
次章で詳しく見ていきましょう。
2、A-PEST分析でわかる!印象派はどのようにして生まれたのか?
それでは次に、印象派の誕生の背景について、
以下の4つの観点から分析して行きたいと思います。
1、Politics:政治的背景
・政情は不安定だが比較的平和な第三共和制時代が続く
1852年に発足した「ナポレオン3世」による第二帝政が、1870年に終焉します。
これは、ナポレオン3世が普仏戦争を仕掛けた結果惨敗し、自らが捕らわれてしまい退位に追い込まれたからです。この後、パリコミューンによる大混乱を経て、第三共和政が始まります。
政情は不安定ながらも、フランスは比較的平和な世の中が続いていきます。
2、Economics:経済的背景
・産業革命の完成と恐慌
産業革命による機械化生産の効率化等の反動や、アメリカによる大規模な鉄道等への公共投資による景気過熱など様々な要因が重なり、1870年代半ばから世界的な不況へと突入します。
これ以降、1890年代半ばくらいまで経済は低調で推移します。
このような経済状況は、印象派の絵画の売れ行きにも影響を与えました。
3、Society:社会的背景
・鉄道が整備され、ヒトやモノの移動が容易に
19世紀を通じて人口が増大していったパリですが、鉄道が整備された結果、人々が郊外とパリとを行き来できるようになっていきました。いわゆる「出稼ぎ労働者」が増加したのもこの頃からだと言われています。
・パリ万博の度重なる開催とジャポニスム
1867年以降1900年までの間、パリ万博は4回開催されます。
特に1867年のパリ万博では、日本が初出展し話題になり、いわゆる「ジャポニスム」の契機になりました。
このときに出展された浮世絵などの日本美術が、印象派の形成に大きな影響を与えたと言われています。
4、Technology:技術革新の背景
・産業革命によるヒト、モノ、カネ、情報の移動革命
産業革命による技術革新が進みました。
鉄道の施設の大幅な延長による移動革命が、人々を早く遠くまで運べるようにしました。
また、これにより、モノ、金、情報も同様に流れが加速していきます。
・写真機の普及
写真技術の発展により、画家の「記録を行う役割」がこの技術革新にとって代わられるようになっていきました。1840年代には肖像写真ブームが起き、画家がそれまで担っていた「記録としての肖像画」の役割が代替されていきました。
以上のPESTを踏まえると、以下の通り「ART:印象派」に繋がっていきます。
・パリ・コミューンという大混乱の後、ようやく国内が少しずつ安定に向かっていくも、経済は長い不況に突入。
・フランスは万博を継続して行っており、特に、1867年のパリ万博は日本が初出展し、フランスの画家たちに大きな影響を与えるきっかけに。
・そして、鉄道の整備により、気軽に郊外に行くことができるようになり、田園風景をモチーフとして描くことが可能に(絵の具が持ち歩けるようになった発展も)。
・また、写真の普及により、これまでの肖像画という「記録としての絵画」の需要が減少し、画家の存在意義が問われるように
・このような様々な要因が絡み合っていった結果、クールベやマネといった「新たな時代を描く画家」が登場し、フランスの伝統的な美術業界を揺らがせ始めます。
・その「革命」を推し進めたのが、モネをはじめとする印象派であり、「筆触分割」という「絵の具をキャンバスに並置して、混ぜないで鮮明に描く手法」でした。
これらが印象派の登場の背景となります。
さてでは、このような時代背景の元、どのようなアーティストや作品が生まれたのでしょうか?
3、印象派を代表する5人のアーティストとその代表作とは?
①クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)
「印象・日の出」(1872年、油彩、48 × 63 cm、マルモッタン美術館)
印象派の筆頭として代表的な画家がクロード・モネです。
彼の「印象・日の出」という作品が、この印象派(Impressionism)の名前の由来です。
モネがなぜ、どのようにして、印象派絵画にたどり着いたのか?
詳しくは以下の記事で解説していますので、詳細はそちらをご覧いただけたらと思いますが、
この「印象・日の出」は、1874年に開かれた「第一回印象派展」に出品され、酷評されます。
「筆致が残っている」「曖昧で何を描いているのか・・・」「ぼやっとしてる」
といった批判を浴びて、「印象を描いているようだ」という皮肉としての批評を得ました。
これが転じて、「印象派」と呼ばれるようになりました。
印象派の誕生の瞬間が、この1874年という年でした。そして、その時期はまさに、これから世界が不況に突入していく直前の時代であり、これからの印象派の受難を示唆していたようでした。
【参考】モネの積みわらについても解説してます↓
②オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日 – 1919年12月3日)
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』
(1876年、油彩、131 × 175 cm、オルセー美術館)
パリのモンマルトルの丘にあったダンスホールを描いた作品。
印象派の特徴である「光」が人々に降り注いでいる場面を明るく描いたルノワールの代表作です。
この絵は、仲間の画家だったカイユボットによって購入され、のちに、フランス政府に寄贈されオルセー美術館の所蔵作品となりました。
私も、このルノワールの作品が一番好き。
オルセー美術館の三階の間に展示されていて、非常に強烈に印象に残っています。
③カミーユ・ピサロ(1830年7月10日 – 1903年11月13日)
『赤い屋根、ポントワーズのサン=ドニの丘、冬の効果』
(1877年、54.5×65.5cm、油彩、オルセー美術館)
戸外制作を行い風景ばかりを描いた、根っからの印象派画家のひとりであるピサロの代表作。
この風景は、ピサロが42歳から53歳ごろまで住んでいたポントワーズのサン・ドニの丘を描いた作品です。
このポントワーズには、ピサロをはじめとして、影響されたセザンヌやゴッホなども住んでいた場所であり、現在もアーティストを魅了する場所です。
ピサロはこの作品を1877年の第三回印象派展で発表しました。同様の作品が他にもありますが、これが最も完成度が高いと評価されています。
ピサロは印象派のグループで最年長であり、非常に温厚な性格もあり、画家たちに慕われていました。
セザンヌはピサロについて、「父親のような存在だった。相談相手であり、神のような人だった」と語っています。
④アルフレッド・シスレー(1839年10月30日 – 1899年1月29日)
『ポート・マルリー、セーヌ川と砂の山の風景』
(1875年、油彩、54 x 65.7cm、シカゴ美術館)
1900年のパリ万博で展示された作品です。
ル・ポール=マルリーは、シスレーが愛した街であり、モンテクリスト城などの名所があります。
シスレーはこの場所の風景を頻繁に描きましたが、この砂の山は、製紙工場が紙を作る際に用いられるものです。シスレーはこのような「非日常的なモチーフ」を好んで描きました。
⑤エドガー・ドガ(1834年7月19日 – 1917年9月27日)
『バレエのレッスン』(1871-74年頃、油彩、85 x 75cm、オルセー美術館)
印象派に数えられることが多いドガですが、その作風は印象派とは一線を画していることがお分かりいただけるかと思います。
この作品は、そんなドガが、歌手のジャン=バティスト・フォールによって依頼され描かれました。
作中の老人は、ドガと親しかった、ダンサーのジュール・ペローです。このような縁もあり、ドガは、パリのオペラ座でのダンスレッスンを描き、同様のシリーズを制作しています。
*
以上、印象派という美術様式について解説してきました。
この印象派以降、本格的に、近代絵画の扉を開くことになり、
絵画が「抽象化の道」へと入っていくことになります。
この傾向を推し進めたのが、後期印象派のスーラやシニャックといった画家たちによる「点描画」です。
また、これに続いていくのが、印象派などに深く影響を受けた「ポスト印象派」の面々です。
次回は、19世紀末に活躍した巨匠たちが登場してくる「ポスト印象派」についてご紹介していきます。