こんにちは!ゼロアートのAkkoです。
今回はポスト印象派の美術様式について紹介していきます。
まず初めに、3つの特徴について見ていきましょう!
目次
1、ポスト印象派の特徴とは?3つのPから紹介します!
◆Period (When ?)
19世紀後半
◆Place (Where ?)
フランス
◆People (Who?)
セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホの三大画家です。
・ポール・セザンヌ:『サントヴィクトワール山』
・ポール・ゴーギャン:『黄色いキリスト』
・フィンセント・ヴァン・ゴッホ:『タンギー爺さん』
以上が、基本的な概要です。
それでは、「ポスト印象派」とはどんな美術様式なのか、説明していきます。
◆ポスト印象派とは?
ポスト印象派を、一言で表すと
【目に焼き付くほどのハッキリとした色と形で現実世界の夢を描いた美術様式】
といえます。
ポスト印象派の前は
19世紀の中頃に、目の前に写る自然や光を表した印象派が主流でした。
しかし印象派の絵画には、陽光を表そうとするばかりに
描かれる人物や物体の輪郭があやふやになっていました。
ポスト印象派の画家達は、印象派に影響を受けながらも、その影響から脱却していくように、
単色を使い、ハッキリとした色彩で、自分の描きたい事を描くという主張を絵に表現していきました。
では、印象派のあとに生まれてきた新たなポスト印象派の画家たちは、どのようにしてその画風を発展させていったのでしょうか?
2、A-PESTで読み解く!ポスト印象派の時代背景とは?
ポスト印象派の画家たちが活躍したのは、19世紀も終盤になります。その当時のフランスはどのような時代だったのでしょうか?A-PESTで紐解いていきたいと思います。
【1】Politics:政治的背景
・フランスの第三共和政の時代
普仏戦争、パリコミューン成立などを経て、ティエール大統領の第3共和政が生まれます。
政情は不安定ながらも、比較的平和な状況を保ち、19世紀末へと向かっていきます。
・政教分離法と結社法の制定
・1901年、「結社法」が生まれる。
・1905年、「政教分離法」の成立
また、20世紀の初頭にかけては、この二つの法律が制定されます。
宗教の自由を認め、教会と国との密接な関係を無くそうとしました。安定した政情を築こうとしました。
【2】Economy:経済的背景
経済対策として行われた植民地拡大
1873年に起きた世界恐慌から、フランスの経済は打撃を受けていました。
当時は、第二帝政から本格的に取り組んだ工業化により比較的労働力は安定していましたが、それでもまだ、農業従事者の人口の方が上回っていました。
この状況下で工業化を進める政府は、労働力確保のためには、植民地を拡大することで経済活性化を図ろうとしました。
・インドネシアへの軍事派遣
・アルジェリア・チュニジア・モロッコの制圧
・西アフリカからの植民地拡大
など海外展開を積極化し、インフラ整備や資源開発などを各国で実現させていきました。
しかし、他国で得た収益は全てフランスが独占し、過酷な労働環境を強いていたことから、
現地の国民は、不満を高まらせ植民地の独立運動が起きることになりました。
【3】Society : 社会的背景
・高齢化の促進
産業革命の影響を受けてヨーロッパ全体の人口は増加していきましたが、フランスでは、増加率が他国より緩やかだったことから、高齢化が徐々に進んでいました。
・ベル・エポック
19世紀中頃に開催された「パリ万博」を経て、新しい文化と科学の発達から、世紀末の1890年代から第一次世界大戦前までの華やかな時代が訪れました。
・パリを中心に文化・芸術が花開く
・新聞が日刊化となりマスメディアが発達
など、様々な経済発展から華やかな時代が到来していました。
特に、19世紀の最後の年にあたる1900年には、パリ万博とパリ五輪が同時開催され、フランスは世界の文化の中心として、非常に多くの外国人が押し寄せました。
【4】Technology:技術革新
・数々の技術革新
1900年のパリ万博に向けてエッフェル塔が建てられ、同時にエレベーター利用や地下鉄(メトロ)の開通などが次々に始まります。19世紀後半の「電話の発明」など、社会がどんどん便利になっていきました。
【Art:美術様式】
フランスは、徐々に資本主義化し、同時に「文明化」していきました。
また、美術世界でも、鉄道の開通に始まる公共機関の進歩から、個々の活動範囲が広まりました。
この背景から印象派と呼ばれる団体ではなく、個人で活動していく画家が生まれていきます。
その代表が、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホです。
では、この3人の画家の作品と人生について
次の章で詳しく見ていきましょう。
3、ポスト印象派の代表的な3人のアーティストと作品について解説!
①ポール・セザンヌ(1839-1906)
セザンヌは、南フランスのプロヴァンス地方で裕福な父の元に生まれます。大学は法学部に入学します。
ですが、画家になることを諦められずに、再び絵筆を取りますが、生前は思うようには評価されませんでした。
彼の作品は、従来の静物画とは違う目線で捉えていることが特徴として挙げられます。
「自然の中にある全てのものは、球、円錐、円柱の3つの形態で出来ている」
と語り、
上、下、右、左など多視点を一枚の絵に詰め込んで、描こうとしました。
実際に作品を見ると、リンゴは現実ではありえない、様々な角度から描かれていることがお分かりいただけるかと思います。
②ポール・ゴーギャン (1848-1903)
ゴーギャンは、1848年にパリで生まれます。ちょうど「2月革命」という大転換の時でした。
そのため、共和派系のジャーナリストだった父が失業し、祖国のパリを離れます。
ペルーに渡る船の中で父親が亡くなってしまいます。そして、伯父のいたペルーで幼少期を過ごし、7歳の時にフランスに帰国するという珍しい体験をします。
成人するとパリ海軍に所属し2年間勤務した後、11年間ほどは株式仲買人をつとめ、実業家として活躍しました。
その仕事の合間に趣味として絵を描くようになりました。
印象派の長老的存在のピサロに出会い、勧められ、サロンに作品を出品。その後、不景気等を理由に、画家になる決心をします。
ゴーギャンは、‘‘総合主義‘‘というスタイルで絵を描きました。
すなわち、①自然形態の外観、②主題に対する画家自らの感覚、③線・色彩・形態についての美学的な考察という三つの要素を「総合」することで絵を描くという主張でした。
華やかなフランス文化に背を向けるように、そのゴーギャンが行き着いたのが、素朴な自然のあるタヒチでした。
代表作である『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』は、タヒチで過ごし晩年に描かれたもので、最も有名な作品です。
この作品を描いた頃の彼は、最愛の娘を無くし、金銭的にも追い詰められていたことから、自殺しようとしていたと言われています。
人間存在の意味を問うような哲学的なタイトルを加味して作品を見ると
・右には幼い子供、真ん中には成人、左には老人を描くことで人生を表しています。
・白い鳥に話しかける人からは、言葉の無力さ
・顔を覆う老人からは、「死」を連想させます。
死に直面した彼の精神世界を描くことで、見る者に人生を問いかけています。
③ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ゴッホは、世界で最も著名な画家と言っても過言ではないかと思います。
オランダの牧師の家に長男として生まれますが、画商として働いたり聖職者として活動したりしますが、結局、上手くいきませんでした。
その後、絵を描き始めますが、絵は売れず、画商である弟のテオに経済的、精神的に生涯頼って暮らしていました。
また、浮世絵に出会ったことから日本に憧れを抱き、浮世絵の模写を行ったりしました。ゴッホが南仏アルルに移住したのも「フランスの中に日本を見つけた」からだとされています。暖かな南仏のアルルの地では、数多くの作品を残しています。
アルルの地では、あの有名な「耳切事件」を起こします。
この奇怪な行動で、サンレミの病院へ精神病患者として入院することになります。
退院して、オーヴェルで謎の死を遂げるまで、孤独に苛まれながらも、
人生をかけて絵を描き続けたゴッホは、数々の名作を残し、多くの人を魅了する画家となりました。
その中でも特に有名な『ひまわり』の作品は、ゴーギャンとのアトリエに飾られ、彼との友情をあらわしているとされています。他にも7つものひまわりの習作を描いています。
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いかがでしたでしょうか?
今回は、ポスト印象派の3つの特徴、時代背景、作品について触れてきました。
ポスト印象派の画家たちについては以下の記事で詳しく紹介していますので、よろしければご覧いただけたらと思います。