ゼロアートのMisaです。
本日は私が好きなアーティストのひとりグスタフ・クリムトについてご紹介します。
私が大学生だったころ、一度だけウィーンに旅したことがあります。
その時に出会ったクリムト作品の美しさに衝撃を受けた記憶があります。
それ以来、クリムトの展覧会は日本でも見るようになりました。
さて、そんなクリムトについて、早速見ていきましょう。
Youtubeでも解説!
【10分で分かる】クリムト 「官能と黄金」の美しき絵画で時代を拓いた画家がゼロから10分で分かる
目次
1、【3P分析】グスタフ・クリムトについて
それでは早速クリムトについて、3Pで概観していきましょう。
◆Period(時代)
・1862年7月14日に生まれ、1918年2月6日に亡くなります。56年の人生でした。
・クリムトが生きた時代の芸術は特に「世紀末美術」と呼ばれ、19世紀末を中心に活躍しました。
・象徴主義、ウィーン分離派といった様式に分類されます。
◆Place(場所)
・オーストリアのウィーン郊外のバウムガルテンに生まれます。父エルンストはボヘミア出身の彫版師でした。
・同時期にオーストリアで活躍した芸術家は、クリムト以外にも、エゴン・シーレが特に有名です。
◆People(人)&◆Piece(代表作)
・クリムトは、弟エルンストおよび友人のフランツ・マッチュと共に請負仕事を始めますが、当初は「装飾」を中心とした仕事を行うことで頭角をあらわします。クリムトの作品に特徴的な「デザイン性」は、このようなバックグラウンドや、日本美術の影響等がルーツになっています。
・油彩作品は200数十点の一方で、素描はなんと5000点超(!)と言われています。入念なデッサンは、その美しい構図を実現するために用いられた彼の日々の積み重ねの結果なのでしょう。
・無類の猫、女好きだったようで、たくさんの猫と、複数の愛人と、暮らしていたようです。
・代表作は、「ベートーヴェン・フリーズ」「接吻」「ダナエ」などがあります(後述)。
2、クリムトを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
さて、グスタフ・クリムトはどのような人生を送ったのでしょうか?
次は、クリムトについて、少し詳しく、「ストーリー分析」でその人生を見ていきます。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
アーティストの家系に生まれ、早くからその才能を発揮
・父はボヘミアからウィーンに移住した彫版師、母はウィーンに生まれ育ちミュージカルパフォーマーを志した人でした。
・このように、父も母も芸術に近いところにいたため、クリムトは幼少の頃からその影響を受けて育ちました。7人兄妹の大家族で、クリムトは、3人兄弟の長男です。
・3人兄弟は皆、早くから芸術的な才能を発揮していたようです。のちに、弟たちと装飾の仕事を手がけるなど、一家でその才能を発揮しました。
・クリムトは、1876年に現在のウィーン応用美術大学に入学し、建築絵画などを学び始めます。
生まれた時から美術に関する素養を発揮し、その才能を伸ばしていくことを選択できる環境があった、ということです。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
アイテルベルガーの忠告
・クリムトは、トップの成績で入学を果たしますが、当初は「美術教師」を目指していたようです。
・その才能は類稀なるものがあり、先生たちもこの才能を見抜き、画家になることを勧めます。
・その中で決定的だったのが、ウィーン応用美術大学の創設者だったアイテルベルガーでした。
・彼がクリムトに画家になることを強く薦めたことで、画家の道を歩むことが決まりました。
言い換えれば、そのくらいの非凡な才能を発揮していたということでしょう。
恩師ラウフベルガーによるアカデミックな美術教育
・アイテルベルガーのアドバイスによりクリムトは、ラウフベルガーの元で学びます。
・ラウフベルガーの教育方針は、素描中心のアカデミックな教育方法でした。のちにこのようなアカデミックな画風から分離することで生まれた「ウィーン分離派」の中心存在だったクリムト。このような「堅苦しい型」を学んだことが、のちの独自の画風へと繋がっていきました。
・ラウフベルガーに気に入られたクリムトは、この恩師から数々の仕事を紹介されました。
マッチェという友と弟エルンストと結成した「芸術家カンパニー」
・そして、意気投合したマッチェと、1年後に入ってきた弟のエルンストの3人で「芸術家カンパニー」を結成し、恩師ラウフベルガーの仕事を手伝いながら、仕事を請け負っていきました。
在学中からその類稀なる才能を発揮し、仕事を請け負うようになっていった3人は、ウィーンの好景気の波にものり、すぐに事業は軌道にのっていきました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
父と弟の死と、作品への批判、そして、盟友マッチェとの別れ
・その後、アイテルベルガーなどの紹介もあり、新設されたブルク劇場の装飾等を手がけその実績を着々と積み重ねていきました。
・1890年には、ウィーン美術史美術館の階段の間の装飾の依頼が舞い込んできます。これは、もともと巨匠であり、クリムトにも大きな影響を与えたことで知られるハンス・マカルトに依頼されていたものでしたが、彼の急逝によりクリムトたちに回ってきました。
・この装飾依頼を無事に完遂したクリムトたちには、次々と装飾の仕事が舞い込みました。
・しかし、そんな絶頂期の1892年に、共に仕事をしてきた弟のエルンストが亡くなります。また、この年には父も亡くなります。クリムトが30歳を迎える年でした。弟はまだ20代であり、早すぎる死を目の当たりにして、大きな絶望を経験します。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
アーティスト・クリムトの誕生
・この経験を経て、クリムトの変容が加速します。
・1894年には、ウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、『哲学』『医学』『法学』の3点を制作することになりましたが、この作品が大きな批判を呼びます。この頃から、クリムトは、アカデミックな作風から脱却し、自らのアーティスト性を反映した作品への変化が、顕著に見られるようになります。
・この前後には、装飾の仕事をやめようと思っていたクリムトに対して、装飾で生きていくと決めていた盟友マッチェの意見とが明らかに違っていき、決別に至りました。
・1897年、クリムトは「ウィーン分離派」を結成します。
・アカデミックな壁画や装飾を手がけてきたクリムトによる本流からの「分離」です。
・文化の世界的な中心だったパリでは、すでに、印象派、ポスト印象派の画家たちが活躍し、次代の「ART」への変化のうねりが生じていた「新しい時代」に入っていました。
・このようなうねりの中で、クリムトが中心となり、オーストリアに新たな芸術の形を誕生させようと動いたのがこのウィーン分離派です。
・結果的にこの頃をターニングポイントとして、みなさんがよく知っているクリムトの作品が生み出されていきました。いわゆる「黄金絵画」と呼ばれる「黄金時代」のものです。
・この絶頂期の作品には、「ジャポニズム」の影響が見て取れます。実際、クリムトは日本美術のコレクションを持っていましたし、日本の「琳派」の影響が指摘されています。確かに、そう言われてみると、その作品は、「金びょうぶ」との類似性を見ることができますね。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
愛と死などのタブーだったテーマを描き、オーストリアの「旧態依然とした美術業界」を打ち破った存在
・この「黄金時代」を経て、1910年以降になると、「金色」はめっきり使用されなくなり、「色彩豊かな作品」が増えていきます。死や生をテーマにした作品を色彩豊かに描きました。晩年になり、自らの死期を直感すると共に、また新たな境地を開いていきました。
・クリムトは1918年、当時大変流行していたスペイン風邪に罹患し、命を落としました。56年の人生でした。
・クリムトが遺した作品については、次章で紹介しますが、彼が19世紀末に自分の湧き上がってくる想いを形にして結成したウィーン分離派は、後進のアーティストたちに大きな勇気を与えました。
・特に、その影響の大きさで知られ、素晴らしい作品を遺したのがエゴン・シーレです。クリムトは若き才能あるアーティストに支援を惜しまず、シーレを広くサポートしました。
彼の後に続いたシーレは、28年の短い人生でしたが、クリムトとシーレは未だに多くの人々に「美」を感じさせる素晴らしい財産として、人々の心に生き続けています。
3、クリムトの5つの代表作とは?
クリムトの人生をストーリー分析で見てきましたがいかがでしたでしょうか?
この章では、そんなクリムトの作品について、特に重要なものを5点ほど紹介したいと思います。
① ユディトⅠ
クリムトの黄金時代の本格的な幕開けを飾るのがこの作品です。
ユディトは、聖書外伝の「ユディト記」の中で描かれる女性であり、高潔さや勇気を象徴する女性として、度々描かれてきました。左手に持つのは、ホロフェルネスの首です。
このような劇的な場面を、クリムトは、通常よく描かれる「短剣」を登場させず、また、血を描くことなく表現しています。
その姿は、恍惚の女性の表情であり、その美しさを強調した黄金のユディトは、「頭を切り落とす」という凄惨な場面とは程遠い、「黄金の美しさを見せつけるための題材」として描かれています。
② 女性の三時代(The Three Ages of Woman)
女性の三つの時代をひとつの画面に表現した作品。特に、この左側の老婆については、ロダンの彫刻作品「美しかりしオーミエール」にインスピレーションを受けていると言われています。
赤ん坊、美しい女性、老いた女性。この三つの時間を、クリムトの代名詞であった金(画像ではわかりにくいですが)を背景にして描きました。
クリムトが用いた特徴的な「矩形」のキャンバスは、1.8mの大画面に描かれた意欲作です。
左の老女は、左手で自分の顔を覆い、その姿を隠しているようにも見えます。
一方で中央の若き女性の頭上には「花」が描かれています。これは「この世の春を謳歌する」と暗に意味しているように映ります。
クリムト自身が女性をどのように捉えていたのかが分かる一枚です。
彼は以下の言葉を残しています。
「アーティストとしての私を理解したいと思うのであれば、私の絵を注意深くみて、私が何者で、何をしたいのかを見出すべきだ」
③ アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I
数年をかけて描かれたクリムトの代表作。
モデルは、ウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレ。
フェルディナントは、美術コレクターとしても有名なユダヤ人で、クリムトを含めた芸術家のパトロンとなっていました。
この絵の美しさは、クリムトの黄金時代を代表する一枚であり、ふんだんに使用された金箔の美しさはもちろんのこと、アデーレの周囲に散りばめられたデザイン紋様にあります。このようなモチーフは、ジャポニズムの影響を受けていると言われ、日本人にとってどこか懐かしさを思わせる作品となっています。
④ 接吻
クリムトといえば「接吻」というイメージもあるかもしれませんが、代表作のひとつで、とても人気がある作品です。
それはおそらく、この優しそうな女性の表情と、金箔をふんだんに使用した色彩の美しさ、そして、クリムトの特徴的な装飾的な描写が相まって、「日本的」と感じるからかもしれません。
1908年に開催された、第1回ウィーン総合芸術展(クンストシャウ・ウィーン)で発表されました。
当初は、「恋人たち(Lovers)」という題名で発表され、国家買上げとなりました。クリムトの絶頂期の作品です。
⑤ 死と生
美術愛好家のレオポルド夫妻が収集した作品を展示しているプライベート・ミュージアムに所蔵されている、クリムトの晩年の作品です。
この作品が描かれた当初は、背景は「黄金時代」のように金色で描かれていたそうです。
暗くて重たい背景に、生き生きと生きる人々たちが描かれています。そして、そのすぐ左側には、死の象徴である死神が描かれ、「生と死は表裏一体であること」を感じさせます。
しかし、この画面全体から受ける印象は、「死」の方が強い気がします。
もともとは金で描かれていたのに、なぜ黒く塗りつぶされたのか。それは、クリムト自身が老い進んでいくことに対して、自分のこれからの「老い先」が短いことを意識せざるをえない年齢に達していたからでしょう。
死の方が近い存在となった。
1918年に命を落とす3年前。父を失くした年齢に近くなると共に、20代で命を落とした弟。
クリムトには、生き生きとした生命を感じれば感じるほど、死の恐怖もまた、その陰を強くしていったのではないか。そんなことを感じる作品です。
*
幼少の頃からその芸術的な才能を存分に発揮したクリムトは、
当時のオーストリアの美術界の主流であったアカデミズムの教育の中で、その頭角をすぐさま現し、指導者たちからその才能をかわれた結果、若くして成功しました。
しかし、その「小さな成功」から自ら離れ、変革する道を選びました。
その変革の道は、常に死と隣り合わせだったのかもしれません。
以上、クリムトの生涯と代表作品についてご紹介してきました。
楽しんでいただけたら幸いです。