こんにちは!ゼロアートのAkkoです。
今回は、19世紀後半に活躍したポスト印象派の代表的な画家
ポール・ゴーギャンについて紹介していきます。
ゴーギャンは、フランスで生まれ、タヒチで代表的な作品を描きました。
また、明確な形態と、平坦な色合いを使って、
「現実には目に見えない想像の世界や観念」を主題として描く作風を確立。
その美術様式は、総合主義と呼ばれ、ポスト印象派に分類されえます。
そのゴーギャンの人生と作品について紹介していきます。
目次
1、【3P分析】ポール・ゴーギャンについて
この章では、時代、場所、人物/作品の3つの点から、ゴーギャンについて読み解きます。
◇Period (時代)
・1848年に生まれ、フランス領ポリネシアのマルキーズ諸島で、1903年55歳で亡くなります。
・1883年、30歳になってから本格的に画家としての活動を始めました。
◇Place (場所)
・パリで生まれ、幼少期を南米で過ごしました。
・その後再びパリに戻り、その後は、デンマークや、ポン=タヴェン、アルル(仏)等で暮らす時期を経て、南太平洋諸島のタヒチ、マルキーズ諸島へと移り住み、多くの名作を残しました。他のアーティストに比べて、以下の通り、数多くの場所を転々としました。
- 1873–1884 パリ
- 1884 ルーアン
- 1884 コペンハーゲン・デンマーク
- 1885 セーヌ、パリ
- 1886–1887 ポン=タヴェン
- 1887 マルティニーク
- 1888 ポン=タヴェン
- 1888 アルルでのゴッホとの共同生活
- 1889 ポン=タヴェン
- 1891–1893 1回目のタヒチ滞在
- 1894 ポン=タヴェン
- 1895–1901 タヒチへ移住
- 1901–1903 マルキーズ諸島のヒヴァ・オアで永眠
◇People (人)& Piece(作品)
・パリで株の仲買人として成功し、1873年にデンマークの女性と結婚、4男1女、5人の子供にも恵まれますが、のちに離婚しています。
・印象派としての活動を経て、「総合主義」という独自のスタイルを確立。美術史の区分では、「ポスト印象派」として分類されます。
・代表作は、「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」「黄色いキリスト」「かぐわしき大地」などです。
以上がゴーギャンの3P分析です。
次は、ゴーギャンの人生を5つのポイントから分析して
読み解いていきましょう!
2、ゴーギャンの人生を5つのステップから読み解く「ストーリー分析」!
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
実業家から転身!趣味で始めた絵がきっかけで画家に転じる
・ゴーギャンは、共和主義系のジャーナリストの父の元に生まれました。
・ゴーギャンが1歳の時、パリで起こった二月革命の弾圧から逃れるため、母方の親戚を頼り南米に向かいますが、不幸なことに、その船上で父が他界してしまいます。
・14歳になった時、海軍の予備校の入学試験に失敗。結局、商船等の操縦士の助手になり、フランス海軍に入隊します。ここまで画家とは無縁の生活を送っていました。
・その後、1871年23歳のころに、株式仲買人として職を得てから、実業家として成功。この時期に結婚しました。
そして、この頃から近所の画廊めぐりをし始めると共に、デッサンを始め、美術の世界に親しむようになっていきました。さらに、そういった中で、印象派の中心的存在だったカミーユ・ピサロと親交を深め、絵を指導してもらうようになります。
このような縁もあり、1879年の「第四回印象派展」に初めて作品を出品します。景気の悪化等もあり、1883年頃までには、株式仲買人の仕事を辞め、画家としての人生を歩み始めました。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・印象派画家のカミーユ・ピサロによる影響
印象派の画家として知られるカミーユ・ピサロは、全ての印象派展(計8回)に作品を出展していた印象派グループの中でも最年長だった画家です。
趣味で絵を描き始めたゴーギャンに出会い、指導し、無名の彼の事を知り合いの画家に紹介するなど、画家としての活動を応援しました。
この有力なサポートがあり第4回(1879)〜第8回(1886)までの印象派展に作品を出展する機会を得る事になります。
しかし、ゴーギャンは、印象派のような農村や自然を背景とした自然主義的な絵画スタイルに違和感を覚え始め、新しい美の形を求め、パリを離れます。
・ポン=タヴェンで知り合ったエミール・ベルナールとの交友
その後、ルーアンや、妻の故郷のデンマークでの生活を経て、パリに戻り、1886年にブルターニュ地方のポン=タヴェンを訪れます。
ここには多くの画家が集まっていましたが、ゴーギャンはその中でリーダー的な存在となり、のちに「ポン=タヴェン派」として知られるグループを形成していきました。
その後、1888年に再びポン=タヴェンを訪れた際に、エミール・ベルナールと出会います。ゴーギャンは、彼の理論や描き方に非常に大きな影響を受けると共に、自然な形態、明確な輪郭、平坦な色面を使う「総合主義」という絵画様式を共に確立しました。
【ステップ3】試練「人生最大の試練は?」
・経済的、精神的に貧乏な生活を強いられていた晩年のタヒチでの絵画生活。
1888年には、生活費が安く、画家が多く集まるポン=タヴェンで暮らし始め、前述の通り、ベルナールと共に「総合主義」を確立しました。この頃の代表作が「説教の後の幻影―天使とヤコブの闘い」です(後述)。
その後、ゴッホとのアルルでの共同生活を経て、家族やパリの美術業界などから逃避する意味合いもあり、1891年に南国タヒチを訪れます。原始的で未開の地を目指して渡ったタヒチでしたが、実際は、すでに文明が入り込んだ後でした。
しかし、タヒチという土地は、ゴーギャンに新たな美のインスピレーションをもたらし、ゴーギャンの作品の世界観を大きくひろげました。これ以降、ゴーギャンにとっての代表作が数多く生み出されました。
1893年には、パリに戻ります。描いてきた絵の評価を問う目的がありましたが、大成功とは行かず、1895年に再びタヒチに、ひっそりと、戻りました。
この頃は、特に、健康面と経済面で問題を抱え、苦しんでいました。そして、その状況に追い討ちをかけたのが、1897年に起きた最愛の一人娘の死です。この死は、ゴーギャンを追い詰め、自殺を考えさせ始めます。
【ステップ4】変容・進化「その結果どうなった?」
・命を懸けて描いた懇親の作品
タヒチで最愛の娘の死をきいてから、完成したら死ぬつもりで描いたのが、
『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々は、どこへ行くのか』です(後述)。
この作品は、病を抱え、悲しみに打ちひしがれ、人生に絶望しながら作り上げたゴーギャンの最高傑作として知られています。死ぬ気で描いた巨大作品は、そのストーリー性に裏打ちされ、作品を見るものを感動させる圧倒的なエネルギーを感じさせます。
この大作は、「人生とは何か」を問いかける象徴主義の代表的なテーマを、平面的な色合いで輪郭をはっきりと描くという総合主義のスタイルで描きました。その大きさは、タテ1m39㎝、ヨコ3m79㎝にも及びます。
制作後、自殺を図りますが、結局、未遂に終わります。
セザンヌやピカソなどの絵を買い付ける画商のアンブロワーズ・ヴォラ―ルが入手します。
この画商から契約金を得た事により、1901年、タヒチを離れ、さらに原始的な風景を求め移住を決意します。結局、その地が、ゴーギャンの終焉の地となる、フランス領ポリネシアにあるマルキーズ諸島のヒヴァ・オア島でした。そこでは、「歓楽の家」を建て、1903年3月に55歳で亡くなりました。
【ステップ5】使命「結局、彼/彼女の使命は何だった?」
・後世に影響を与える革新的な美術様式の確立
「あまり忠実に自然を模写してはいけない。芸術は一つの抽象なのだ。
-自然から中小を引き出し給え。そして、結果よりも創造行為の方に思いをこらし給え」
この言葉は、彼が作品のスタイルを確立させたポン=タヴェンで、友人に宛てた手紙の中に書かれた言葉です。
この言葉に表わされているように、
ポスト印象派として分類されるゴーギャンの作品は、印象派の絵画とは違う、「明確な輪郭」「平坦な色合い」「大胆な構図」のように、「見える対象を自分の感性で表現して描くべき」という「総合主義」を生み出しました。
このスタイルは、日本の浮世絵やステンドグラスに影響を受け、クロワゾニスム(輪郭をはっきりさせ、平面的な色面で構成すること)を用いることによって確立されていきました。
このようなゴーギャンの斬新な美術スタイルは、前衛的な画家グループ「ナビ派」の結成や、ピカソやマティスといった巨匠たちにも影響を与えました。
なお、生前の作品についての評価はイマイチでしたが、死後その評価は非常に高くなっていきました。
例えば、1892年作の『Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)』は、2015年に、当時の史上最高額となる3億ドル(約360憶円)で落札されるなど、世界的画家としてその評価を確立しました。
3、ゴーギャンの4つの代表作を解説!
ゴーギャンの人生ストーリーはいかがでしたでしょうか?
さて、本章では、ゴーギャンの代表的な作品を4つ紹介していきたいと思います、
①『説教の後の幻影―天使とヤコブの闘い』
この作品は、二度目となるポン=タヴェンに滞在していた時の作品です。
1888年にベルナールと出会い影響を受けながら、自身のスタイルを確立していく最初期に描かれました。
ヤコブは、この格闘シーンでヤコブと格闘している「神」から「神と戦う者」という意味の「イスラエル」という名を授けられる場面です。
宗教的な題材を、極めて「個人的な感性」で捉え表現していくスタイルは、このあとにタヒチ等に渡ることによって、さらに進化していきます。
②『黄色いキリスト』
この絵は、アルルでのゴッホとの共同生活が破綻し、ポン=タヴェンに戻った時に描かれた作品です。
現地の人々が神に祈りを捧げている最中に、キリストが現実に現れるという神秘を描いています。
タイトルにもある「黄色」ですが、ゴッホが非常に大切にしていた「生命の色」を表していると言われています。
ゴーギャンがこの黄色を主として用いたこの作品からは、アルルでの共同生活に思いを馳せ、ゴッホとの友情を未だに思っていることを読み取れます。実際、二人の共同生活は破綻してしまいましたが、その後も手紙を通じて交流は続いたと言われています。
③『かぐわしき大地』
ゴーギャンは、南国の素朴で自然が溢れる異国での生活に憧れ1891年にタヒチを訪れます。1889年に行われたパリ万国博覧会で、植民地の様子を見たこと等がきっかけになったようです。
この一回目の訪問後に一旦フランス本土に戻りますが、その後再び1895年にタヒチに向かいます(これ以降は、フランス本土に戻ることはありませんでした)。
この作品は一回目の滞在で描かれました。ゴーギャンといえば、このようなタヒチの女性を描いた作品がもっともよく知られているかと思います。
この少女は、ゴーギャンがタヒチに訪れてから書かれた紀行文「ノアノア」(タヒチ語でかぐわしい香りという意味)に登場する、テフラという13歳の少女がモデルです(ゴーギャンのタヒチの妻でもあります)。
この独特なポーズは、タヒチに訪れる前のパリ万博博覧会に提出した『異国のエヴァ』と同じポースです。母の写真を元に描かれた『異国のエヴァ』を元にして、聖書の失楽園を引用し、テフラを「イヴ」に重ねて描かれており、「原始のイヴ」とも呼ばれています。
④『我々はどこからやってきたのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
この作品は、2度目のタヒチを訪問した際に描かれた、ゴーギャンの代表作です。
・曲がりくねった木、海、空を背景
・禁断の果実のを採取する人を真ん中に描き
・右から、黒い犬、眠る赤ん坊、背を向ける女、青い神像、果実を食べる子供、老婆、白い鳥などがモチーフとして描かれています。
これらは、右から左にかけて、幼い子供、成人、老女を描いている事から、生命の誕生、愛、死など、人間の一生を描いているとされています。
「我々はどこからやってきたのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というタイトルからも分かるように、「生きるとは、何か」という哲学的な問いを鑑賞者に投げかける大作であり、ゴーギャン自身も認める懇親の一作です。
前述したとおり、デンマークに残してきた愛娘が亡くなり、また、健康状態も最悪、そして、金銭的な問題に苛まされていた状況も重なり、「自分の死を見越して」描かれた巨大作品です。
全身全霊で描いた作品は、見るものにその「全てを出し切ったエネルギー」を感じさせる歴史に残る作品です。
*
いかがでしたでしょうか?
ゴーギャンは、他のアーティストに比べて頻繁に移動を繰り返したので、少しその軌跡がわかりにくいかもしれません。冒頭に移動の軌跡を記していますので、ご参考になれば幸いです。
その他のポスト印象派の画家については、よろしければ以下のリンクよりご覧ください。