こんにちわ!ゼロアートのMisaです。
本日は、彫刻です。
世界で最も有名な彫刻家オーギュスト・ロダンについてご紹介します。
ZERO ART主宰堀越の著書「論理的美術鑑賞」の中でも詳しく紹介していますので、ぜひそちらもご覧ください。
1、【3P分析】オーギュスト・ロダンについて
早速、3P(Period/Place/People・Piece)でロダンについて概観していきましょう。
◆Period(時代)
・ロダンは、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に没します。
・従って、ロダンが生きた時代としては、19世紀末〜20世紀初頭となります。
◆Place(場所)
・フランス、パリに生まれます。
・当時、世界で最も文化的に盛り上がっていた時代のパリに生まれたことは、ロダンの彫刻家としての運命を決定付けたように思います。
◆People(人)& ◆Piece(代表作)
・ロダンは、77年という人生を謳歌します。
・ロダンは、生前に国際的に評価された、数少ないアーティストのひとりです。
・生涯で制作した作品数は、6000点以上。膨大な量であり、超多作といってよいでしょう。
・代表作は「考える人」や「地獄門」などが有名です(後述)。
以上がロダンに関する基本的な情報になります。
2、オーギュスト・ロダンを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
では、ロダンはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でロダンの人生を少し深堀りしていきましょう。
youtubeでも解説しています!
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【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・ロダンは、パリの労働階級の家に2人目の子供として生まれます。
・ロダンは、幼少から目が悪く、学校での授業についていくのが非常に大変だったそうです。
- 従って、読み書きソロバンを行うのが非常に苦痛で、そんな中で格闘して行った結果、絵を描いたりすることに興味を持ち始めました。
・その結果、14歳の時には親を説得して、プティット・エコール(後の装飾美術学校)に入学しました。
- ここでアーティストとしての基礎を学び、アーティストの道を歩み始めます。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・姉のマリアの支えと、ミケランジェロ作品との出会い
実は、ロダンは生涯を通じて、特別に師と呼べる人はおらず、ほとんど独学で彫刻を学んでいったとされています。そのような状況だったからこそ、ロダンが近代彫刻の祖として、新たな表現を開拓できたとも言えるかもしれません。
そのような中、特にロダンが初期の頃に影響を受けた人々は、
・姉のマリア
・ミケランジェロ
この2人と言えます。
詳しくは拙著に譲りますが、
- 姉のマリアは、ロダンを精神的にも経済的にも支え、彫刻家になることを後押ししてくれたサポーターでした。
- ミケランジェロは、当然、同時代に生きて影響を与えたわけではありませんが、ロダンがイタリア旅行に行った際に、ミケランジェロの彫刻群をみて、覚醒し、彫刻家としての道を本格的に歩み始めるきっかけとなりました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
・3度にわたる不合格と姉の死
ロダンにとって最初の最大の試練は、エコール・ボザールへの3度にわたる不合格と、
それに追い討ちをかけた「姉のマリアの死」でした。
この経験を通じて、ロダンは彫刻家としての道を歩んでいくことを止め、
マリアと同じように修道士として生きようとしました。
しかし、修道院で出会ったピエール・ジュリアン司教に、修道士には向いていないことを告げられ、
ロダンは彫刻家として再び歩んでいくことを決めました。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
・イタリア旅行で覚醒し、彫刻家として独り立ちするまで
その後、実は長きにわたって、彫刻家としては芽がでませんでした。
動物彫刻家の大家であるアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りし、彫刻を学びました。
しかし、生計を立てる必要があったため、彫刻家のカリエ=ベルーズのアシスタントを務めたりしながら装飾の仕事なども含めて行っていきました。
1870年に普仏戦争が勃発すると、ロダンは極度の近視のおかげで兵役を逃れますが、
戦争の影響で仕事が減っていき、ベルギーに仕事を求めて居を移します。
そして、6年間の滞在の末、イタリア旅行でミケランジェロの作品に出会い、開眼し「自分の表現したいものを貫き通そう」と決心します。
・「青銅時代」という物議を醸した出世作
そして、1877年にフランスのサロンで「青銅時代」を発表し、賛否両論を巻き起こしました。
これはすなわち、「本当の人間から型を取ったのではないか?」という批判でした。
あまりのリアルさと、「普通の人間」を彫刻したことに対して批判が集まりました。
ロダンは、その批判を払拭するために、サイズを大きくして「青銅時代」を制作しなおした結果、評価され、1880年にフランス政府に2000フランで購入されます。
そして、このことを契機として、フランス政府から将来建設される美術館の門を制作してほしいというコミッションワークの依頼が舞い込みます。
そこで構想したのが、ロダンの代表作となる「地獄門」でした。
結局この作品は、ロダンの生前には鋳造されることはありませんでしたが、
ロダンにとって生涯をかけて心血を注いだ、大切なモチーフであり作品でした。
そして、この1880年を境にして、ロダンは次々と重要な作品を制作し、フランス美術界のスターダムの階段を駆け上がって行きました。
それは、ロダンが40歳になった頃でした。大器晩成、遅咲きの春が来たと言えるでしょう。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
・「ありのままに」「モチーフの生命感を表現する」作品を制作し2つの意味で伝統から解放した近代彫刻の祖
ロダン以前の彫刻は、簡単に言えば、「神話等に現れるモチーフを、理想化して制作する」というのが、主流でした。これは、フランスのサロンという展覧会場に代表される「伝統」であり、当たり前のことでした。
しかし、ロダンは、「鼻のつぶれた男」や「青銅時代」といった「生身のありのままの人たち」を「生命感たっぷりに制作した」ことから、賛否を呼びました。
つまり、「モチーフの変革」と「伝統的な制作方法からの解放」といった2つの点を推し進めた唯一といっていい存在だったわけです。
これは、フランス絵画ヒストリーにおいて、クールベから、マネやモネと続いて「近代絵画の夜明け」が起きてきたように、彫刻の歴史の中にロダンも同様の変革を起こしていったのです。
つまり、ロダンは、そのような点において、
「近代彫刻」という新たな扉を開いた「父であり祖」と表現されるのです。
ロダンは1900年にパリで開催されたパリ万博では大回顧展を開催し、その国際的な評価を揺るぎないものとしました。
そして、ロダンは1917年に亡くなり、彼の遺言の通り、1919年に国立ロダン美術館が開館しました。
*
ロダンの人生をストーリー分析にのせて、見ていきました。
ロダンの人生を少しでも、流れで捉えることができていたら嬉しく思います。
3、オーギュスト・ロダンの5つの代表作を解説!
最後に、ロダンの代表作について少し解説して紹介していきたいと思います。
youtubeでも解説!
①青銅時代(Age of bronze)
1877年、ブロンズ、H. 180.5 ; W. 68.5; D. 54.5 cm
ロダンがベルギー滞在中に制作された、ロダンの出世作。ベルギーの若き兵士「Auguste Ney」をモデルにし、その習熟した技量と人体に対する深い洞察が表現されています。1877年にブリュッセルで発表され、その後、パリのサロンで展示された結果、物議を醸しました。
もともとこの像の左手には、槍が携えられていたそうですが、ロダンは武器を捨て、自由への動きを表現に盛り込みました。
パリで物議を醸したのは、生き型を使ったのではないかと疑いを持たれたからでした。この騒動の結果、ロダンは大きな注目を集め、結果、1880年の「地獄門」の制作依頼へと繋がっていきました。
②考える人(The Thinker)
1880年(modeled)、ブロンズ、H. 180 cm ; W. 98 cm ; D. 145 cm
1880年に70cmあまりの高さの「考える人」が構想されたとき、「地獄門」の頂上部分の一部としてでした。
当初、この彫刻の名前は「考える人」ではなく「詩人」と名付けられていたようです。
ロダンは、ダンテの「神曲」にインスピレーションを受けこの門を構想したことが知られていますが、この「考える人」のポーズは、実は2つの作品に大きな影響を受けています。
ひとつが、1861年に制作されたジャンバプティスト・カルポーによって作られたウゴリーノ(写真・左)。
もう一つが、ミケランジェロによって制作されたメディチ家礼拝堂の彫刻です(写真・右)。
結局、「考える人」は1888年に、地獄門から独立して展示され、ひとつの作品となりました。
1904年に大きいバージョンが制作され、この大きいバージョンの方が有名になっていきました。世界中に同様のバージョンがあります。
日本では、
・国立西洋美術館の玄関前の屋外広場
・京都国立博物館の屋外空間
に設置されています(本物です)。
③接吻(The Kiss)
1882年頃、ブロンズ、H. 181.5 cm ; W. 112.5 cm ; D. 117 cm
1888年にフランス政府に依頼され、1888年から1898年の間に制作されました。
このモチーフは、もともとは、ダンテの神曲に登場するパオロとフランチェスカであり、禁断の恋を表現しています。
この作品も、地獄門の一部として制作されましたが、切り離され、1887年に展示されました。
その流れるようなスムースな表現とダイナミックな構成、そして、魅力的なテーマの作品は、瞬時に人気を博します。そして、いつしか「The Kiss(接吻)」と呼ばれるようになっていきました。
④ヴィクトル・ユゴー記念像(Monument to Victor HUGO)
1890年、ブロンズ、H. 185 cm ; W. 285 cm ; D. 162 cm
1885年にヴィクトル・ユゴーが死去してから、ユゴーの遺骨が埋葬されているパンテオンに、モニュメントを設置することが決まりました。そこで1889年にその作家として選ばれたのがロダンでした。
ロダンは、ユゴーが亡命したガンジー島の岩の上に座っている場面を選び、思索にふけっている詩人としてのイメージと、共和制を擁護するものとしてのイメージとを表現しようとしました。
しかし、「明快さにかけていて、シルエットが曖昧」という理由から、満場一致でこの案が否決されました。
1890年以降、坐像と立像の両方の構想を検討していきましたが、1897年にパリのサロンで提案されたのは、以前のスケッチでも表現されていたミューズを伴うものでしたが、結局、最終版となった大理石のバージョンでは、それらは排除され、今の形になりました。
(*ブロンズ版は、後世になって鋳造されたものです)
⑤地獄門(The Gate of Hell)
1880年頃〜 1890年、ブロンズ、H. 635 cm ; W. 400 cm ; D. 85 cm
「地獄門」の制作過程では、200体以上の作品が生み出されました。その中から、例えば、「考える人」のように、作品が独立していき、単独の作品として発表されていきました。1889年の万博に向けて発表する予定でいましたが、多忙の為完成せず、1890年頃には制作を中止しています。
しかし、その後も完成させようとした形跡が見られています。
1900年には、パリの個展で初めて公開することを決めていましたが、結局、公開されたのは部分に止まりました。
そして、1907年には、ルクセンブルク美術館でブロンズと大理石のほぼ完成したバージョンがお披露目され、結果、フランス政府がこれを買い上げました。
そして、ロダンが死去する年になってようやく、ロダン美術館の最初の学芸員でもあるLéonce Bénéditeが、地獄門をブロンズで鋳造する許可を得るためにロダンを説得し、ロダンがそれを許可しました。
結局、ロダンはこの結末を見届けることなく、亡くなってしまいました。
従って、この作品は死後鋳造です。日本では、国立西洋美術館(上野)の屋外空間に設置されています。ぜひ実物をご覧いただけたらと思います。
【参考URL】フランス・ロダン美術館ホームページ(http://www.musee-rodin.fr/en)
*
以上、非常に長くなりましたが、ロダンについてその生涯と作品について見てきました。
近代彫刻の祖オーギュスト・ロダンの魅力を、断片的に、ですがご紹介しました。
他にも、運営会社のSDアートの記事でも解説していますので、もしよろしければ合わせてご覧いただけたら幸いです。
*「ロダン作品の購入」についても可能です。詳しくは↓