ゼロアートのMickeyです。
本日は、人類史上最高のアーティストとしての呼び声が高い、レオナルド・ダ・ヴィンチについてご紹介します。世界中で知らない人はいないアーティストでしょう。
目次
1、【3P分析】レオナルド・ダ・ヴィンチについて
それでは早速ダヴィンチについて、3Pで概観していきましょう。
◆Period(時代)
・1452年4月15日生まれ、1519年5月2日没。67年の人生でした。
・ダ・ヴィンチが活躍した時代は、15世紀後半〜16世紀前半です。
・ルネサンスがもっとも花開いた時代になります。
◆Place(場所)
・イタリア、トスカーナのヴィンチ村に非嫡出子(婚姻関係にない両親の子供)として生まれます。
・フィレンツェを中心に、ミラノ、ヴェネチアをめぐり、そして、フランスで最後を迎えました。
◆People(人)&◆Piece(代表作)
・ダ・ヴィンチの性格等については、様々な説がありますが、共通しているのは、「興味が次々と移ろっていく」「納期を守らない」「やりたいことしかやらない」など、多動症のような性質を持った人物だったと推測されます。天才にはよくある性質です。
・現存する「真偽が確定している作品」は15点程度です。関心が次々と移り変わっていくため、作品を「完成させる」ことについて、あまりこだわりがなかったのではないかと思います。もしくは、「完成した!」と思っても、翌朝には、「いや、もう少し描けるな・・・」ということを日々繰り返していたのではと思います。
以上がダ・ヴィンチに関する基本的な情報になります。
2、レオナルド・ダ・ヴィンチの人生を15点の作品とたどる!作品の旅!
さて、ダヴィンチはどのような人生を送ったのでしょうか?
その人生を辿っていきたいと思いますが、ダ・ヴィンチについては、拙著「論理的美術鑑賞」で「ストーリー分析」を行い、詳しく取り上げていますので、是非そちらをご覧いただけたらと思います。
また、ルネサンスがどのように、なぜ生まれたのかという時代背景については以下の記事で解説しているので、よろしければご覧ください。
従って、今回はいつもとは違った観点から彼の人生をとらえていきたいと思います。
すなわち、15点の現存する「作品」の軌跡と共に、人生を辿っていきたいと思います。
1. 受胎告知
ダ・ヴィンチと、師匠であるヴェロッキオとの共作ですが、大部分をダ・ヴィンチが描いたとされ、彼の名前が冠された、現存する最初の作品。
●時期について
ダ・ヴィンチは、1466年14歳でヴェロッキオに弟子入りします。この師匠がとても優れた人で、フィレンツェでも有数の芸術家として名を馳せていました。その後、20歳の時から制作されたのがこの受胎告知です。
ダ・ヴィンチのデビュー作と言われています。
●作品について
「受胎告知」は、キリスト教の新約聖書で書かれているエピソードで、数多くのアーティストによって繰り返し描かれてきたテーマです。
・左側に描かれた翼を持つ者が天使ガブリエル、右側に描かれた女性が聖母マリアです。
・ガブリエルが、処女マリアに妊娠を告げています。そのお腹の子は言わずと知れた、「キリスト」です。
・ガブリエルが左に手にしているのが、「白百合」です。これは、「純潔」や「フィレンツェ」を現しています。
・マリアは「赤」と「青」がおきまりの衣装です。青は空の色を現し「純潔さ」「神性」などを現し、赤は「情熱」「愛」といった意味を現しています。
2. キリストの洗礼
ダ・ヴィンチと、師匠であるヴェロッキオとの共作です。
当時主流だったテンペラを用いて制作され、その上から、当時はまだ新しい技術だった油彩で加筆された作品です。
ダ・ヴィンチが担当したのは、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使や風景、岩、キリストの一部とされています。
ダ・ヴィンチがこの絵を描いた際に、ヴェロッキオは、その技術の高さに驚き、この出来事以降、ヴェロッキオ自身は、絵を描かなくなったという逸話が残っています。
このヴェロッキオの工房は、ボッティチェリ、ギルランダイオ、ペルジーノといった優れた弟子たちが活躍しており切磋琢磨していました。
ダ・ヴィンチも当初からめきめきと才能を発揮していたのですが、実はこの後、長く不遇の時代を歩みます。
一説には、その「納期を守らない仕事の仕方」や「完璧を求めすぎる性格」などがわざわいして、なかなか評価が上がらなかったという事情があるようです。
ヴェロッキオという優れた師匠との出会いはこの上なく幸運でしたが、同時代の優れた弟子たちと比べて、ダ・ヴィンチの名声が確立されていくには少し時間がかかりました。
不朽の名作「最後の晩餐」を待たねばなりません。
3. カーネーションの聖母
1478年頃、ダ・ヴィンチはヴェロッキオの工房から独立したとされていますが、それよりも少し前の作品とされています。
・『受胎告知』と同様に、モチーフは聖母マリアで、赤と青の洋服がそれを現しています。
・カーネーションを手にしていますが、この意味は「深い愛情」です。神の子であるキリストへの母の深い愛情を表現しているのでしょう。
・赤ん坊は、イエス・キリストです。心なしか表情に乏しく、人間味が無いような描き方になっています。
まだこのころは、人物を「物質的に」描いているように思います。ダ・ヴィンチといえど、まだその作風の「若さ」が残る時代の絵画です。
4. ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像
ジネーヴラ・デ・ベンチは、フィレンツェの貴族で、その美貌で知られた人物でした。
当時、女性の肖像画は、婚約か結婚をお祝いする際に描かれるのが通例だったようで、ジネーヴラの肖像画もこの機会に描かれたとされています。
・ジネーヴラの表情は、ずいぶん固いですね。そして、実はまだ20歳前後の若い女性の姿を描いているそうです。なんともまぁ、非常に厳格な表情が描かれています。
・そして、特に目立つのは、背後の「トゲトゲの樹木」です。この樹木が生い茂っていることによって、ジネーヴラの髪型の一部のようにも見えます。この「樹木」は、「女性の美徳」という意味を持っているそうです。このジネーヴラという女性を、「美徳の象徴」として描いているということでしょう。
・現に、この作品の裏面には、「VIRTVTEM FORMA DECORAT 」というラテン語が描かれており、意味は「美は徳を飾る」となります。「美も徳も兼ね備えた女性」ということを強く表現したかったのですね。
個人的には、能面の彼女の姿は、少し怖い感じがします。
あえて「人間味」を抑えて、「理想的な肖像としての絵画」を描いたのでしょうが、これまた人間が「物質的」に描かれている印象を受けます。
5. ブノアの聖母
ヴェロッキオの工房から独立した当初の作品とされています。
「カーネーションの聖母」と比較してみるとわかりますが、こちらのマリアは穏やかな表情が見て取れます。
また、キリストの姿も比較的「人間味」を増して、以前よりは親しみやすい姿となっています。
一方で、キリストは救世主であるため、気品を保たねばならないのでしょうね。その表情が良いバランスの上に成り立っています。
6. 東方三博士の礼拝
●顧客は?
・1481年5月、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から『東方三博士の礼拝』の制作依頼を受けました。
・未完成に終わっているのは、途中でミラノ公国に仕えることになったためです。
・結果、フィリピーノ・リッピがこの仕事を受け継ぎ、1496年に同タイトルの作品を完成させています。
●絵画の意味
・中央にマリアとキリストが据えられ、その姿を3博士(マギ)を含めて多くの人が礼拝している姿を描いています。背景には、マクセンティウスのバシリカという古代ローマ時代の建造物が描かれています。このテーマも、聖書の一場面を描いたもので、多くの画家が同テーマで描いています。
・ちなみに、この3博士は、それぞれ贈り物を携えて礼拝にくるのですが、そのものとは、没薬、乳香、黄金の3つです。没薬は、将来の受難「死」の象徴、乳香は「神性」の象徴、黄金は「王権」の象徴とされ、キリストに意味を付与しています。
7. 音楽家の肖像
●絵画について
ダ・ヴィンチには珍しい男性の肖像画です。これもまた未完成の作品です。
モデルは誰だったのか?おそらく、1482年にレオナルドに同行してミラノにやって来た音楽家、アタランテ・ミリオロッティではないかと言われています。
実はこの右下の楽譜は、当初は塗りつぶされていたそうで、1905年の修復でこの楽譜が発見されたそうです。
●場所について
ダ・ヴィンチは、1482年、ミラノ公国にわたり、ミラノを統治していたルドヴィーコ・スフォルツァに仕えます。スフォルツァに仕えるきっかけになったのは、ダ・ヴィンチ自身による「売り込み」でした。
この手紙は10項目の「アピールポイント」が書かれていたのですが、その中で「軍事面で力になれるよ」ということを特に強調し、最後にちょろっと「平和な時には彫刻や絵画もやります」と付け加えました。
この時は、イタリアが現在のように統一された国家ではなく、小国に分立して覇権を争っていた時期でした。
特に、1490年代にはイタリア戦争が起こり、イタリアが混乱していた時期です。このような情勢下では、「軍事技術者」としてのメリットを強調することが良いと「マーケティング」したわけです。
結果的に、ダ・ヴィンチは、ミラノで重宝されることになりました。そして、このミラノ滞在が、ダ・ヴィンチの最大の出世作『最後の晩餐』につながっていきます。
8. 白貂を抱く貴婦人
ミラノ公ルドヴィーコの愛妾だったチェチーリア・ガッレラーニを描いた肖像画です。
手元には「シロテン」という動物を抱えています。このシロテンも様々な意味が含まれていますが、特に、その毛皮は上流階級の証であるとともに、ルドヴィーコの「シンボル」でもあったそうです。
愛人の絵画を通じて、「ミラノ公」としての存在をはっきりと示しているということでしょう。
9. 岩窟の聖母
2枚の『岩窟の聖母』です。この「ほとんど似たような作品」が「2つ」存在することにより、これまでたくさんの論争が起きています。(そのような情報はwikipediaにたくさんあるので、そちらに譲ります。事細かに見たい方はそちらをご参考ください)
さて、2枚を比べると、2枚とも、聖母マリアとキリスト、そして、洗礼者ヨハネと天使ウリエルを描いています。その違いは何かといえば、天使ウリエルの「目線と右手」です。
この「違い」についても様々な解釈が成り立つようです。
というのは、描かれている「イエス」と「洗礼者ヨハネ」について、どちらがどちらか、という点が非常にわかりにくいからです。
その理由としては、「後世に書き加えられた可能性がある」などの研究があるためです。例えば、ロンドンバージョンの左の赤ん坊の「十字」はその可能性があると指摘されています。
このため、レオナルドが当初描いたものとは、意図や目的がずれてしまった可能性があり、論争の原因になっています。
10. ラ・ベル・フェロニエール(ミラノの貴婦人の肖像)
モデルが誰かというのははっきりとはわかっていませんが、私は、ミラノ公ルドヴィーコの公妃のベアトリーチェ・デステだったのではないかと推測しています。
・強い眼差し、そして、超然たる態度は、公妃もしくは愛妾のいずれかでしょう。
・『白貂を抱く貴婦人』と同様に背景が黒。そして、その中に赤く浮かび上がる姿は「強き女性」のイメージがよく投影されています。
ダ・ヴィンチは、4枚の女性の肖像を描いていますが、その中でも最も「強さ」が強調され、そして、それと共に「美」も際立っている作品だと感じます。
11. 最後の晩餐
レオナルド・ダ・ヴィンチの出世作であり、モナリザと並ぶ不朽の名作。世界遺産に指定されています。
この壁画は、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの命によって、教会のリノベーションに合わせて、食堂に描かれました。当時は、「最後の晩餐」は食堂に描かれるものだったそうです。
絵の解説については、本当にたくさんなされているので、ここではあえてしませんが、この絵のすごさは何か?と言われれば、私なりには以下の点を挙げます。
・最大の作品:レオナルドにとって最大の作品である。
・存在の稀少性:壁画なのにテンペラで描いたため、劣化が早い。また、これまで「破壊の危機」に幾度となく直面してきており、その度に生き残ってきたことから、「存在していること自体が奇跡」であり稀少性が極めて高い。
・出世作としての価値:レオナルド・ダ・ヴィンチという天才を知らしめた出世作であり、名声を確立した作品である。
・作品の謎:それまで制作されてきた「最後の晩餐」と構図が違うという点の斬新さもしばしば評価の対象になったと言われますが、それ以上に「レオナルドの作品だから、何か謎があるのではないか」という推測等がたち、実際に様々な「解釈」が生じていること。
以上の4つの点を以って、この作品がここまで世界的に有名になっていると分析します。
『モナ・リザ』もそうですが、「多様な解釈をさせたくなる」「答えがひとつではない作品」は、いつまで経っても人々の話題にのぼりやすく、時代を超越しやすいのではないかと思います。
特に、私は映画「ダヴィンチ・コード」を見た時に、その解釈に鳥肌が立ちました。
キーワードは「聖杯」です。ご興味あればぜひご覧ください。
12. 聖アンナと聖母子
●時代背景
・1499年、フランス王ルイ12世は、ミラノ公国へと侵攻し、スフォルツァ公家を追放しました。これに伴い、ミラノはルイ 12世の支配下になります。
・この作品は、ミラノの新たな領主となったフランス王ルイ12世が、娘クロードの誕生を祝い、1499年にダ・ヴィンチに依頼したものです。
●作品について
・3人が「トライアングル型」に配置され、三位一体の構図になっています。
・背景は、ダ・ヴィンチらしく、幻想的な風景を配することで、幻想的な雰囲気を醸し出し、鑑賞する者との間に距離をとるような描き方がされています。
成熟した「ダ・ヴィンチらしさ」が出てきており、最後の晩餐という大作を経て、アーティストとして一回りもふた回りも成長したことが明確にわかる作品です。
13. 救世主(サルバトール・ムンディ)
●顧客
ルイ12世およびその妻のアンヌから依頼されて描かれたとされています。その後、様々な国を転々として、2017年クリスティーズのオークションに出品され、人類史上最高値の約500億円で落札された作品。これからルーブル・アブダビ美術館に展示されるとのこと。つい最近のことなので、記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。
●絵画の意味
サルバトール・ムンディーはラテン語で、日本語に訳すと「世界の救世主」という意味であり、数々の画家が描いてきたモチーフです。
この絵の中では、ルネサンス期の衣装を身にまとったキリストが、右手で十字架のサインをつくり、左手にはクリスタルのオーブを持つという「おきまりのポーズ」をしています。クリスタルのオーブは、「天国」を現しています。そして、このオーブがダ・ヴィンチの作品であることを裏付ける重要なモチーフになっています。
2020年4月18日現在、まだこの絵は公開されていません。2年以上にわたって公開が延期されています。
この延期が様々な憶測を呼んでいます。「偽物をつかまされたのではないか」という話もあります。あくまでも噂ですが。
14. モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)
世界で最も有名な絵画といった差し支えないでしょう。
モナ・リザのモデルについては、長らく論争がありましたが、現在は、フィレンツェの裕福な絹商人と結婚した女性のリザ・デル・ジョコンドと特定されています。
では、このあまりにも有名な「モナ・リザ」は、なぜ世界で最も有名で、高額な作品となったのでしょうか?
・作品の素晴らしさ:背景、手法(スフマート・空気遠近法)、モチーフの捉え方など、すべての点において完成度が高く、斬新さを持つ作品の美しさが挙げられます。
・ダ・ヴィンチにとっても特別だった:死ぬまで保有していた「理由」が不明であり、なぜ引き渡されなかったのか、という点です。これまでのレオナルドの態度から見ても、これはあまり特筆すべき点ではないかもしれませんが、ダ・ヴィンチが死ぬまで自分で持って加筆し続けた「特別な作品」であることは間違いないでしょう。結局、亡くなるまで持っていたため、フランスにこの名画が渡ることになりました。
・謎:誰をモチーフにして、いつ、どこで、どのようにして制作が始まったのか、そして、なぜ最後まで保有していたのか?など様々な謎が詰め込まれていたという点です。「人類史上最高の画家だから、何か深い考えがあったのではないか?」という「想像が膨らんでいくこと」で、この作品が名画として価値を高めていきました。
・盗難による物語性の付与:1911年には、元ルーブルの職員による盗難事件が発生し、2年もの間、失われていたり、損壊を受けたりするたびに、人々に注目され、有名になっていったことでしょう。実際に、このようなストーリー性が付与されると共に、広告等での露出も増え世界で知らない人がいなくなっていったのです。
以上、4つの切り口から見てみました。ここまで世界中の人に知られたアイコンは無いでしょうが、これからもその地位は揺るぎないのではないかと思います。
15. 洗礼者聖ヨハネ
ダ・ヴィンチの最後の作品とされる『洗礼者ヨハネ』です。
暗闇に浮き上がり、不敵な笑みを浮かべています。ダ・ヴィンチが得意としたスフマートの技術の高さが見て取れる円熟の作品です。ヨハネの「右手を天に示すポーズ」は、何を意味しているのでしょうか?
「これから、キリストがくるよ」というサインでしょうか?
救世主が世の中を救いにくることを示しているということでしょうか?
このダ・ヴィンチが生きた時代は、イタリアという国が戦乱続きで非常に不安定だった時代です。フランスはイタリアを支配下に入れようと、戦争を繰り広げていました。その最中、ダ・ヴィンチは、1516年に当時のフランス国王フランソワ1世に招かれ、クロ・リュセ城に滞在することになります。『モナリザ』『聖アンナと聖母子』そしてこの、『洗礼者聖ヨハネ』をたずさえて。
そして、このフランソワの元で過ごした3年間が、ダ・ヴィンチにとって最後の時となりました。
さて、現在真作だと言われ現存している絵画作品のみを取り上げて、レオナルドの人生を辿ってきました。
非常に筆が遅く、完成させられない、ダ・ヴィンチの性格が垣間見れたのではないでしょうか?
3、レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密は「◯◯」にあり!
さて、ダ・ヴィンチがここまで世界的に評価されているのは、この絵画の出来という点のみを見てのものではありません。
もう一つの要素としてあげられるのが、彼が「未来の道具」を描き記したことです。
16世紀といえば、科学技術はまだ、現代のそれと比べると、全く未熟であり、例えば、機関車や車、飛行機といった類の発明はまったくなかった時代です。水道も、電気も、ありません。
ようやく、「印刷技術」が発達して、本が出版されるようになってきた時代です。
そんな時代に、彼が考え、記していたのが、「戦車」や「飛行機」そして、「車」といったテクノロジーでした。これらが実際に発明されるのは、19世紀に入ってからです。
そのような「アイディア」を日々考えては残していたのが、彼の「メモ」である「手稿」です。
そう、彼の創作の秘訣は「手稿」(メモ)にあったといえるでしょう。
ダ・ヴィンチは、「メモ魔」だったのです。
この手稿は、時代ごとに10のカテゴリーに分けられています。
1アトランティコ手稿、2トリヴルツィオ手稿、3鳥の飛翔に関する手稿、4パリ手稿、5アッシュバーナム手稿、6ウィンザー手稿、7アランデル手稿、8フォースター手稿、9マドリード手稿、10レスター手稿
特に、10のレスター手稿は、1994年にビル・ゲイツが約30億円($30,802,500)で購入したことでも有名になりました。
この手稿について解説していくと、また膨大な量になってしまいます。
ですので、またいつか、別の機会にご紹介したいと思いますが、
ダ・ヴィンチがアーティストとして崇められる理想的な姿は、彼のネタ帳とも言える手稿の存在によって、その価値が裏付けられ、高められていると思います。
*
以上、レオナルド・ダ・ヴィンチの主要な作品を元にして、その生涯についてご紹介してきました。
ダ・ヴィンチは、思いついたアイディアをメモに記録しながら、自分のアイディアを具現化していく「メモ魔」であり、そのメモは、自分の頭の中にあるインスピレーションをしたためておく、「宝の保管庫」としての役割があったのでしょう。
そういった点でも、彼の手稿は、その思考プロセスや、作品へと反映していく「プロセス」を表したものとして、内容をつぶさに見てみたいと思うのは、私だけではないでしょう。
そう、現実に、ビル・ゲイツがレスター手稿を30億円かけて(彼にとっては小銭でしょうが)、この不世出のメモを手に入れたのは、そういった彼の思考プロセスを究明したいと考えたからでしょう。
今の時代こそ、ルネサンス・シンカーが必要とされ、ダ・ヴィンチのような人が必要とされる時代です。
ぜひそういった視点で、ダ・ヴィンチを今一度眺めてみると新たな気づきがあるはずです。