ゼロアートのMickeyです。
本日は、19世紀中ごろ~20世紀初頭のフランスに生きた画家クロード・モネについてご紹介します。
モネはゴッホと並んで私たち日本人に最もなじみの深い、そしてとても人気のある画家です。
19世紀後半にフランスで興った絵画運動「印象派」を代表する画家であり、生涯、時間や季節とともに移ろいゆく光を追い求めた「光の画家」の生涯とは?
目次
1、【3P分析】クロード・モネについて
それでは早速モネについて、3Pで概観していきましょう。
◆Period(時代)
・モネが生きた時代は「ベル・エポック」に重なります。
・ベル・エポックとは、日本語で「よき時代」のことです。19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代をさします。
・印象派が興った1860年代にはフランスの産業革命はほぼ完成し、パリは急激に近代化し物質的にも豊かな時代に突入していました。
・ちなみに、1867年には、パリ万博で日本が初出展した結果、その独自性等から、ヨーロッパでジャポニズムが流行し、「浮世絵」が、モネらフランスの絵画界に大きな影響を与えていた、そんな時代です。
◆Place(場所)
・パリで生まれ、幼少期をル・アーヴル(ノルマンディ地方のセーヌ河口の街)で過ごし、主にフランスで活躍します。
・「セーヌ。私は生涯この川を描き続けた。あらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで・・・」との本人談にある通り、拠点はすべてセーヌ川沿い。ル・アーヴルに始まり、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ポワシー、そして終の棲家ジヴェルニー。
・ヨーロッパ中を旅し、気に入った土地に滞在しては風景画を描きました。
・兵役で赴いたアルジェリアで受けた「光と色彩の印象」が、モネの探求心の萌芽となりました。
◆People(人)&◆Piece(代表作)
・1840年11月14日に生まれ、19世紀末を生き抜き、1926年12月5日、86年の生涯を閉じました。
・絵画界でリアリズムという革命が興った頃に生まれ、この革命を発展させた「印象派」の画家として一時代を築き、70年の間絵を描き続けました。やがて印象派も終わりを迎え、次々と新しい芸術運動が興りますが、生涯印象主義を貫きます。
・代表作には、「ラ・グルヌイエール」、「印象・日の出」、「積みわら」連作、「睡蓮」連作などがあります。
・遺した作品は、油彩2,000点、デッサン500点、パステル画100点。うち「睡蓮」の作品群は約300点に及びます。
以上がモネに関する基本的な情報になります。
2、クロード・モネを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
さて、モネはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を追ってみたいと思います。
それでは順にみていきましょう。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
パリで次男として生まれ、5歳でル・アーブルに移り住みます。
生まれた時からきかん坊でじっとしていられず、太陽の輝きや美しい海といった大自然とともにあることを好みました。
少年のころから絵画に巧みで、人物などのカリカチュア(戯画)を得意としていました。
15歳のころには文具店で売ってもらえるほどの腕前になっていたカリカチュア作品。そのひとつがこちらです。
・18歳で油絵の戸外制作と出逢う
ル・アーブルで活動する風景画家「ブーダン」に画才を見初められ、油絵の戸外制作との運命的な出逢いを果たします。
控えめな性格のブーダンは、人づきあいが苦手で自然の中で独り過ごすことを好む人物でした。
ですがこの時は、戸外制作にあまり乗り気でないモネを、根気強く口説いたといわれています。
こうしてブータンの戸外制作に同行したモネは、その「即興的」な制作を見学し、絵画に目覚めるのです。
のちにモネは、画家になるきっかけとなったこのできごとを「絵画にどれほどのことがなし得るかを理解した」と語っています。
この頃ブータンとともに戸外制作した有名な風景画がこちらです。
油絵を描き始めて間がないとは思えない完成度です。
バルビゾン派の影響と同時に全体的に明るい画面には、ブータンの影響が色濃く表れています。
その翌年、画家になることを父に強く反対されたモネは、自身がカリカチュアで稼いだお金でパリにでます。19歳でした。
家族の反対をよそにパリに出たモネは、何かと衝突しては仕送りを絶たれ、経済的に苦しい日々を送ることになります。
そうまでして選んだ画家の道、芸術の都パリで、モネにはどのような出会いがあったのでしょうか。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
モネには大切な出逢いがたくさんありました。
画家になるきっかけのブータンとの出逢い、クールベやマネからの影響、はじめての支援者エルネスト・オシュデのサポート、家族(二人の妻と子供たち)の支え、などなど。
その中からあえて「師匠:ヨハン・ヨンキント」「印象派の仲間:ルノワール」「画商:デュラン・リュエル」の三人にスポットをあてて、ひとりずつご紹介していきます。
・師匠:ヨハン・ヨンキント
モネの「眼」は、印象主義の先駆者といえるオランダの画家「ヨハン・ヨンキント」との出逢いによって、完成しました。
ヨンキントは、ブータンがモネに与えた戸外制作指導を補完し、自然を自分が観察した通りに描くことを教えました。
この影響についてモネは、「彼は私の真の師となった。私の眼の教育の仕上げをしてくれたのは彼なのだ。」と語っています。
また、セザンヌはモネのこの「眼」を、「モネはひとつの眼だ。絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。」と絶賛しました。
・印象派の仲間:ルノワール
兵役を免れて22歳で再びパリに戻ったモネは、シャルル・グレールのアトリエに通うようになります。
この頃、印象派グループの基礎となった交友関係(ピサロやルノワール、バジール、シスレーなど)ができあがりました。
なかでもルノワールとは、印象派を象徴する描き方「筆触分割」をともに確立するなど、深い関わりをもちました。
ふたりはラ・グルヌイエールの湖畔に赴き、カンバスを並べて湖面に映える陽の光を印象主義に忠実に描き続けます。
そのふたりの協創により、筆触分割は確立したのです。
カンバスに描く対象に「自然」を選んだモネと、「人物」にこだわり続けたルノワールとは、のちに違う道を進むことになります。
・画商(支援者):デュラン・リュエル
画商のデュラン・リュエルの支援と商才によって、モネは存命中に「印象派の大家」という名声と莫大な富を手に入れました。
デュラン・リュエルとは、1870年に勃発した普仏戦争を避けてロンドンに疎開していた時に出逢います。
普仏戦争後の1871年以降モネの絵を購入してくれるようになり、経済的に少し余裕ができます。
1873年の世界恐慌によってデュラン・リュエルの事業が悪化した際は、再び経済的に困窮しました。
これをきっかけにモネは、印象派展を企画開催するようになります。後半に概要をまとめたのでそちらをご覧ください。
1880年以降、画廊や芸術雑誌が次々と誕生し、画商もサロンにとらわれない活動ができる時代になりました。
そこでデュラン・リュエルは、印象派を評価しないフランスに固執せず、ロンドンやニューヨークへと販路を拡げてゆきます。
1886年にニューヨークで開いた「パリの印象派画家の油彩・パステル画展」が好評を博し、モネの人気に火がつきます。
このアメリカでの成功によってモネは、母国だけでの成功とは桁違いのスケールで富と名声を手に入れます。
なにより母国フランスでの成功を望んでいたモネには、不本意な想いもあったようです。
ですが、やがて巡り巡ってフランスでの評価もあがり、母国フランスでもモネは「印象派の大家」と呼ばれるようになりました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
画家になってからのモネは、数々の試練を乗り越えてゆきます。
なかでも最大級の試練をあげるとしたら、次の3つになるのではないでしょうか。
- 世界恐慌が引き金となった極限的な経済的困窮
- 最愛の妻カミーユの死と私生活での苦悩
- 自身の健康問題(白内障)
それではひとつずつ、みていきましょう。
1. 世界恐慌が引き金となった極限的な経済的困窮
画家になってからのモネは、40歳になるまでほぼずっと、経済的に困窮する日々を送っています。
そしてこの困窮は、世界恐慌となった1873年頃に極限に達します。
当時最大の支援者であった「デュラン・リュエル」の事業がうまくいかず、その援助を受けられなくなってしまったのです。
2. 最愛の妻カミーユの死と私生活での苦悩
1879年、最愛の妻カミーユを病気で亡くします。
妻を失ったモネはピサロに、「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない。」と書き送っています。
一方で「死の床のカミーユ」の変化していく顔をカンバスに記録せずにいられない画家の業とも向き合います。
またこのころのモネは、私生活でも苦悩していました。
カミーユ存命中から愛人だったアリス・オシュデとの関係の深まりや、印象派グループの決裂、引っ越し先のポワシーがあわない、など数々の苦悩が重なった時期でした。
3. 自身の健康問題(白内障による目の衰え)
1908年ころから視力の衰えを感じていましたが、1912年に病名が白内障と判明します。
前後して、1911年には2番目の妻のアリスを、1913年には長男のジャンを亡くします。
白内障になると、輪郭がぼんやりとしか見えなくなると同時に、全体が黄色味がかった色に見えるそうです。
当時の白内障手術は大変危険で、回復にも苦痛と長い時間を要したため、モネは、頑なに手術を拒み続けます。
しかし1920年ころには、絵の具の色も識別できないほど症状が悪化してしまい、失明の危機に瀕していました。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
さてモネは、この3つの試練をどのように乗り越え、どのように変容していったのでしょうか。
またその変容は、モネの作品をどう変化させたのでしょうか。ひとつずつ、みていきたいと思います。
1. 第一回無名展(のちの印象派展)開催
当時の美術界はアカデミーの権威が強く、サロンに当選しなければ画家として認められない時代でした。
1869年,1870年と立て続けにサロンに落選していたモネは、サロンとは独立した展覧会を開く構想を描きます。
同じころ、モネと同様にサロンに当選できない若き画家たちも、展示・即売する場を求めていました。
モネは、ピサロ・ドガ・ルノワールら印象派の仲間とともに、審査も報奨もない自由な展覧会の実現にむけ、奔走します。
そして、30人のメンバーで構成された「画家、彫刻家、版画家などの合資会社」を1873年末に設立します。
1874年1月17日には規約を発表し、4月15日~5月15日の期間、1回目のグループ展を実現させたのです。
のちに印象派展と呼ばれるグループ展の1回目が開催された1974年は、図らずも「印象派」誕生の年となりました。
この時モネが出品した「印象・日の出」が酷評され、モネたちは、揶揄されて「印象派」と呼ばれるようになったのです。
やがてこの「印象派」という芸術活動は広く世間に知られることとなり、少しずつ人々に受け入れられていくのです。
2. 旅先で風景を描き続ける中で連作をうみ筆触分割を発展させる
風景画家にとって旅は、インスピレーションを受けるためにも技術や感性を磨くためにも大切な仕事です。
とはいえこの頃のモネは、最愛の妻カミーユの死と私生活での苦悩を癒すかのように精力的に旅に出ます。
気に入った場所に滞在しては描き続け、自然の中で光の作用によって様々な変化を見せてくれる対象を、異なる時間・季節・天候それぞれの光の下で描きわけるうちに、その作品は自然と「連作」となっていきました。
そして、様々な対象を連作する中で、ルノワールとともに確立した「筆触分割」をさらに発展させていったのです。
3. 最晩年に前衛性が強調される現代性の強い作品を生んだ
白内障を患っていたものの、既に大家となっていたモネは、国から絵画制作を依頼される立場にありました。
第一次世界大戦が終わった1918年、勝利を祝って、国に一連の大装飾画を寄贈することを約束します。
そしてその約束を果たすため、1923年に意を決して白内障の手術を受けます。
手術は無事成功し、失明をまぬかれて寄贈絵画を完成させますが、白内障による目の衰えは顕著でした。
モネの描く対象は少しづつ輪郭を失って一層抽象化する一方、色調は鮮やかで大胆なものへと大きく変化します。
図らずも前衛性が強調される現代性の強い作品を、最晩年にうみだすことになったのです。
その力強い筆使いからは、色を失う恐怖を抱えつつ衰えることのなかった絵画制作への情熱が伝わってきます。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
サロンやアカデミーといった権威には関心を示さず、生涯印象主義を貫いたモネの使命は何だったのか。
彼がなし遂げたこと、後世に与えた影響は次の3点に集約されると思います。
①印象主義を極め、権威から自由になった
②20世紀絵画の源流を作った「ポスト印象派」への橋渡し役を担った
③革新的な方法を追求する画家たちに勇気を与えた
ひとつずつ簡単に解説していきます。
①印象主義を極め、権威から自由になった
モネは、自身の信念と「眼」に忠実にひたすらに印象主義を貫きます。
社会の秩序や権威から自由な立ち位置で描き続け、
一般庶民や広く世界からの評価を先に得ることでサロンやアカデミーといった権威から自由になったのです。
またモネは今でも非常に人気が高く、その絵は高値で取引されます。
生前から高い評価を得ていたものの、没後近代絵画の発展とともにその価値が再評価され、高騰しています。
ご興味ある方がいらしたら、ちょっとググってみてください。あまりの金額の大きさに、驚愕します。
②20世紀絵画の源流を作った「ポスト印象派」への橋渡し役を担った
モネら「印象派」の画家たちは、「リアリズム」から始まった近代化の流れのなかで「ポスト印象派」への橋渡し役を担います。
「ポスト印象派」の画家たちは、モネら印象派と関わるなかで改めて、絵画の持つ意義を問い直していきます。
「ポスト印象派」に分類されるセザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンの3名は、非常に個性的で画風などに共通点はありません。
ですが、20世紀の絵画表現の源流を作ったという意味で、その功績は大きいと言われています。
セザンヌは、古典的風景画のような堅固な構築性を回復しようとしました。
そしてゴッホとゴーギャンは、それぞれのやり方で、印象派が軽視した精神性や象徴性を取り戻そうとしたのです。
③革新的な方法を追求する画家たちに勇気を与えた
革新を興した芸術家が、存命中にその功績を認められ、富や名声を手にするのは稀なことです。
それらを手にしたモネの存在は、印象派に続く画家たちに、世に歓迎されなくても革新を追求する勇気を与えました。
以上、モネの人生について、ストーリー分析でみてきました。
モネの人となりや画家としての人生が、垣間みえたのではないでしょうか。
画家として人生を全うしたマネは、一人の人間としても、とても幸せな人生を送ったようですね。
※モネについては動画でも解説しています!よろしければ以下よりご覧ください!
3、モネの9つの作品
さて、作評についてモネは、このような言葉を残しています。
「人は私の作品について議論し、まるで理解する必要があるかのように理解したふりをする。私の作品はただ愛するだけでよいのに。」
このように、モネ本人によれば、自然の本質に迫ろうとしたこと以外に絵画で表現したかったことはなかったようです。
従って、これからモネの9つの代表作をご紹介していきますが、あえて解説や解釈のないスタイルにしています。
ぜひご自身の五感で、ただただ感じてみていただけたらと思います。
◆ラ・グルヌイエール
『ラ・グルヌイエール』 1869年 油彩 74.6×99.7cm メトロポリタン美術館
◆印象・日の出
『印象・日の出』 1872年 油彩 48×63cm マルモッタン・モネ美術館
『印象・日の出』については、「印象派」の名前のきっかけになった作品です。
詳しくは以下の記事で解説していますので、よろしければご覧ください。
◆ラ・ジャポネーズ
『ラ・ジャポネーズ』 1876年 油彩 231.8×142.3cm ボストン美術館
◆「積みわら」連作
「積みわら」については以下の記事でも解説していますので、よろしければご覧ください。
◆「ルーアン大聖堂」連作
◆「睡蓮」連作
*
いかがでしたか?
モネの作品におぼれ、研ぎ澄まされた五感で感じたことを、ぜひ誰かにDemonstrationしてください。
理論と感性を相互に高め合う回路が繋がり、心が歓喜するのを感じられるはずです。
参考文献:「近代絵画史(上)」高階秀爾、「印象派という革命」木村泰司、「印象派で近代を読む」中野京子、「1時間でわかる西洋美術史」宮下規久