こんにちわ!ゼロアートのMickeyです。
本日は、17世紀のバロック美術の開拓者「カラヴァッジョ(Caravaggio)」をご紹介します。
1、【3P分析】カラヴァッジョについて
このカラヴァッジョについて、3P(Period/Place/People・Piece)で概観していきましょう。
◆Period(時代)
・カラヴァッジョは、1571年9月28日に生まれ、1610年7月18日に没しました。
・この時代は、マニエリスムからバロック美術への移行時期であり、そのキーパーソンこそが、今回取り上げるカラヴァッジョでした。
◆Place(場所)
・ミラノに生まれ、ローマを中心に活躍。
・ローマを追放されてからは、ナポリ、マルタ、シチリアを転々として活動。
◆People(人)& ◆Piece(代表作)
・そのずば抜けた技量と大胆な表現が脚光をあび「聖マタイの召命」で時代の寵児に
・一方で、その性格は非常に危うく、挑発的で喧嘩っ早い性格として知られ、悪名高い人物でした。現実になんどもトラブルを起こし問題になり、自分の首をしめてしまいます。
・現存している作品は80点程度
・代表作は「聖マタイの召命」(1600年)「果物籠を持つ少年(果物売り) 」(1593年頃)
2、カラヴァッジョを「ストーリー分析」で読み解く!5つのステップ
カラヴァッジョはどのような人生を送ったのでしょうか?
「ストーリー分析」でその人生を概観していきましょう。
【ステップ1】旅の始まり「どうやってアーティストとしての人生が始まった?」
・生まれてすぐ、ミラノではペストが流行します。その結果、1577年、6歳の頃に父を亡くしています。
・さらに、1584年、11歳の時には母親が亡くなります。
・11歳にしてカラヴァッジョは孤児になるという過酷な運命が襲いました。
・この時を境にして、当時すでに絵の才能が評判となり始めていたカラヴァッジョは、ミラノで後期マニエリスムの画家シモーネ・ペテルツァーノに弟子入りすることになりました。
こうして、激動の人生の中、カラヴァッジョは画家としての人生を歩み始めました。
【ステップ2】メンター、仲間、師匠「どんな出会いがあった?」
・師匠のシモーネ・ペテルツァーノ
カラヴァッジョが弟子入りしたのが、恩師であるシモーネ・ペテルツァーノ(1535–1599)でした。
ペテルツァーノは、ルネサンス期・ヴェネチア派で最も重要な画家ティツィアーノの弟子であり、
マニエリスム後期の画家でした。カラヴァッジョは、彼に4年ほど学びました。
このペテルツァーノはパトロンにもなり、生計の助けともなります。
そして、その後ミラノを後にして、ローマに渡りました。
これは、警官を負傷させた結果、着の身着のままローマへとなだれ込んだという説もあります。
・悪友の存在:建築家オノーリオ・ロンギなど
ローマにたどり着いてからは、サンピエトロ大聖堂の要人パンドルフォ・プッチに気に入られ、この庇護のもと絵を描きます。しかし、この時期に極度の栄養不良の状態などもあり、半年の間療養しました。この時期を支えたのが、悪友だったロンギでした。
・枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテからのパトロネージュ
カラヴァッジョが歴史に名を残す画家となったきっかけとなる人物が、
枢機卿デル・モンテです。
デル・モンテは、科学者のガリレオのバックアップも行うなど、
科学・芸術の支援者として審美眼を持ち合わせた存在でした。
彼との出会いが、「聖マタイの召命」というバロックという新たな美術様式を開拓するきっかけとなりました。
【ステップ3】試練 「人生最大の試練は?」
前述の通り、
・11歳で孤児となり、画家としての道を歩み始めたこと
・栄養不良で死にかけたという人生の転機があったこと
このような試練に直面した結果、カラヴァッジョは、運も味方し「ピンチをチャンスへ」と変えていきました。
その結果、有力なパトロンたちと運良く出会い、名作が数多く生み出されていきました。
【ステップ4】変容・進化 「その結果どうなった?」
そのきっかけとなったのが、「トランプ詐欺師」(1595年頃)『女占い師』(1595年頃)です。
これらの傑作を生み出していった結果(たまたま目に止まった結果)、当時優れた審美眼を持つと評判だった、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに見初められ、パトロネージュ(支援)が開始されました。
これにより、彼の取り巻きの人々から次々と注文を受け、
『聖フランチェスコの法悦』(1595年頃)、『リュートを弾く若者』(1596年頃)や『ホロフェルネスの首を斬るユディト』(1598年 – 1599年)などの作品を生み出していきました。
そして、この枢機卿デル・モンテの推薦等の結果生み出されたのが、
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会内のコントレー聖堂におさめられた「聖マタイの召命」をはじめとする3連作でした。
この作品は、カラヴァッジョにとっては「公式の形」で依頼され、制作した初めての作品でした。
そして、この「デビュー作」は、すぐさま評判となり、カラヴァッジョを一躍、時の人にしました。
【ステップ5】使命 「結局、彼/彼女の使命はなんだった?」
カラヴァッジョという激情の画家は、11歳にして両親を失い孤児として自らの道を切り開いていかねばなりませんでした。
そして、おそらく、「両親の早すぎる死」は彼にとって生涯のトラウマとなったのではないかと思います。
このような「深い悲しみ」や「絶望」といった「押さえ込まれた感情」が表出した結果、
気性の荒さとして「人を傷つける」という行為へと繋がっていってしまったのだと思います。
度重なる暴力や喧嘩は、彼の心の中に溜まっていた「悲しみの感情」を外に出すための行為でした。
そして、1606年5月29日には、ある若者を、故意ではないと言え、殺害してしまいました。
この出来事は、彼のパトロンや絵を応援してくれていた有力者たちも擁護できず、
結果として、ローマから逃れざるを得ませんでした。
その後、ナポリ、マルタ、シチリアと転々とし、恩赦を受けるためにローマに向かう途中、病に倒れ亡くなりました(死因は諸説あります)。38年という短い人生でした。
カラヴァッジョの激動の人生は、自らの激情が招いた「光と闇のコントラスト」が大きな人生でした。
この激情が、絵筆を通じてキャンバスに表現される時、
それは「革新的なオリジナリティー溢れる傑作」へと転換され、表現されていきました。
これがカラヴァッジョが生み出した
「光と闇の劇的な明暗を表現したバロック美術の開拓者としての役割」
であると言えます。
バロック様式という革新をもたらした『聖マタイの召命』をはじめとする3連作は1600年に公開されました。
奇しくも、16世紀最後の年に完成・公開され、
次の時代である「17世紀」という激動の時代の幕開けである
「バロックの始まり」を告げる号砲かのように。
そう、カラヴァッジョは、「バロック美術」というひとつの歴史の転換点を生み出し、
のちに続く、ルーベンスやベラスケス、レンブラントといった巨匠たちに、影響を与えていったのです。
※カラヴァッジョなどをはじめとする巨匠については動画でも解説しています!
よろしければ、以下もご覧ください!
3、カラヴァッジョの作品について
カラヴァッジョの人生について、簡単にですが、みてきました。
彼がバロック美術様式の草分けとなり、一時代を切り開く偉大な画家である理由がお分かりいただけたかと思います。
その天才的な画家の作品の特徴は、以下の3つです;
①キアロスクーロ、テネブリズム
光と闇の強烈なコントラストを用いた絵画を描く手法のこと。
カラヴァッジョの絵の特徴としてこの「極端な明暗対比」があげられます。
②ダイレクトなドローイングと制作のスピードのはやさ
下絵をほとんど描かずに、絵の具をダイレクトに画面にのせていく描き方がカラヴァッジョの特徴でした。
結果として、作品の完成までに要する時間が非常に短かったと言われています。
③グロテスク、動的な極端な表現
モチーフや表現が、死や戦いの場面を描いたりすることで、「劇的」と言える表現が特徴でした。
特に、見たまま感じたままの印象を画面に反映する「リアリスト」としての側面も強く持ち合わせており、
「理想的なモチーフを美しく描く」という描き方ではなく、「ありのままを劇的に描く」という描き方は、多くの人の「感情を揺さぶる絵画」となり評判になりました(受け取りを拒否されることも多々あったようです)。
では、最後に、彼の代表作を中心に具体的に作品を見ていきましょう。
1592年〜1600年(20歳〜29歳頃の作品)
この時期は、ローマに出てきて死にかけたのち、枢機卿デル・モンテに出会った頃の作品になります。
カラヴァッジョの出世作。枢機卿デル・モンテにたまたま目にされ購入され、彼のサポートを受けたことで、有力なコレクターたちが次々と彼に作品を注文するようになりました。
当時には珍しい「静物画」も描きました。
ユディト記における最もドラマチックな場面を切り取り、その瞬間を描いた一枚。死と嫌悪と恐れと期待と、様々な感情が想起される作品。そのリアルな表現は、多くの「模倣者」を生み出しカラヴァッジョスキと呼ばれる人たちが同様の構図で作品を描きました。
1600年〜1606年(29歳〜35歳頃の作品)
デル・モンテ枢機卿という優れたパトロンを味方につけたカラヴァッジョは、とうとう1600年にその名声が頂点を迎えます。
『聖マタイの殉教』、『聖マタイと天使』の2点を加えて3部作として描かれました。この三連作がカラヴァッジョの名声を確立しました。
キリストが捕縛される場面を描いた宗教画。ジョットによる同場面の絵画も有名。死を代表とするネガティブなイメージを描いた宗教画は、カラヴァッジョの代名詞となり、次々と注文が入ってきました。その代表的な絵画とされているのがこの「キリストの捕縛」です。
1606年〜1610年(35歳〜38歳の作品)
さて、1606年には、前述の通り、殺人を犯してしまったことから、ローマから脱出せざるを得なくなります。
その後、約4年、亡くなるまでの間も、逃亡先で数多くの絵画を描き残してきました。
亡くなる直前に描かれた作品。ゴリアテの顔は、カラヴァッジョ自身の自画像だとされています(カラヴァッジョは、度々自分の顔を自分の作品の中に登場させています)。
自分の首を提げて、恩赦を乞う懺悔の意味を絵に込めたのでしょうか。その顔は、死の恐怖に絶望する顔。これから自分が経験する死の前兆を感じ取り、未来に絶望する不安定な精神。
*
いかがでしたでしょうか?
バロック美術様式の始祖とも言えるカラヴァッジョ。
その激情で劇的な人生と、生み出された傑作たちを見ていきました。
同時期の画家については、以下の記事も是非ご参考ください。
【参考記事】